変にわかってしまうといけない、ということは何度も書いているので今更繰り返しませんが1、わかるように書くべきか、というのも微妙なお話です。
加藤典洋先生が「自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書く」ということを仰っていて、これはこれで一般的な指針でよく理解できるわけですが、そういう人を安心させることをやってしまって良いのか、良い場合だけでもないだろう、と考えています。
「わかる人にはわかる」というといかにも独りよがり的に響く訳ですが、ある一定の層より外に漏れ出ていかないよう、その外の人が目にしても「なんじゃこりゃ」と読むのをやめて貰えるように書く、ということはあります。
丁度暗号文のような要領ですが、そもそも言語自体暗号文のようなものであって、放っておいても自然に意味が浮かび出てくる、というものではありません。
そういうと言語能力や語学力の話になってしまいそうですが、言語を解するというのは文法や語彙に習熟しているということではなく、その習得過程において「呼びかけられ」「呼びかける」営みというのが必須になります。第二言語習得において大量のインプットが重要であることは論を待ちませんが、インプットのみでは身に付かないこともわかっています。アウトプット、というより、アウトプットを想定した脳内シミュレーションのような作業が必要になります。赤の他人同士が右と左で言葉を交わしているのでなく、「この」わたしに対して呼びかけられ、そして特定の誰かに対して呼びかける。そういう営みがあって初めてわたしたちはあるディスクールに参入するのです。
ですから一方的に公開している文章であったとしても、どこかに呼びかけ呼びかけられるという所作は含まれていて、これは書き手の意のままになるお話ではないのですが、何気なく追っていた文章に「これはわたしだ」とハッとする瞬間というのがあります。呼びかけられているのが「この」わたしである、と気づく時です。
だからすべてのテクストはどこか手紙的で、手紙である以上、書く方は書く方で仮にも宛先を書いています。この郵便屋さんはあまりアテにならないので、きちんと思った宛先に届くかはわからないのですが、しかし、(書き手ではなく)誰かにとっては正しい宛先に届くものでしょう。
そうすると手紙には、文には、「あの人に届きますように」という誰かに向けての思いと同時に、「きちんと配達されますように」「少なくとも配達はされますように」という、第三者に向けた祈りのようなものが込められます。
「全人類に届きますように」とか言いたくなるかもしれませんが、郵便屋さんは郵便屋さんでしかないので、放送のような真似はできません。どこまで行ってもやはり通信です。通信がうまくいきますように、と思いながら書くのです。
多くの人々を一斉に「これはわたしだ」とハッとさせるポップソングのような通信もあるのでしょうが、その辺は量や数の問題であって、敢えて余計なところに届かないよう用心する時もあります。
誤解を受けやすいもの、正確に言えば、理解など常に誤解なのですがつまらない理解に堕ちてしまいがちなものは、変にわかられてしまうよりわからないままの方が良いのです。
「わかった」と思う人だってわかってはいないわけで、そのわからなさをそのまま受け止められるある特定の層にお便りを出したいなら、わかるようなものを書いてはいけません。
「誰に見られても恥ずかしくないもの」ばかりを書いているわけではなく、大体面白いものは、誰かに見られたら困るものです。銀行強盗の謀議のようなことをしているのです。共謀ですね、共謀。
一方で、いかにも共謀している、と見られるとすぐに捕まってしまいますから、共謀じゃないですよ、ちょっとわけのわからないことを言って遊んでるだけですよ、と振る舞うし、もっと言えば、わけのわからないことを言って遊んでいるのと共謀するのはほとんど一緒のことではないかとも思います。
人にわかられるということには独特の快楽がありますが、それは空腹の時にお腹いっぱい食べるようなもので、食べてしまえば虚しいばかり、その場しのぎのものでしかありません。共謀の快楽に比べると断然質が劣るというものでしょう。
拒食の果てに餓死するとしたら、そこには別の享楽がある筈ですが、その享楽は「少なくとも配達はされますように」という祈りと同じ水準にあるものです。
人は所詮自分のわかっていることしかわからず、わかってしまうことは現時点での自分の理解に引きつけてしまうことですが、これこそホメオスタシスの釈迦の掌、食べて飢えを満たす、到達点の見えるファルス享楽的な底の浅さばかりが鼻につくのです。
誰に届くともわからない手紙であっても少なくとも配達はされますように、という祈りがあって、多分、その辺は郵便屋さんの方の都合で、まるで見知らぬ干からびかけた即身仏のようなところにだけ届くのでしょう。
これを自傷としか見られないとしたらその眼差しがホメオスタシス的に貧相なのであって、自傷と言ったところで誰が誰を傷つけているのか、傷つけている対象が自身نفسであったとして、つまり胸の内で囁くわたしめいた人だったとして、その時傷つけているのは誰か、もう自身=息نفسとは違う何かに既にナイフは手渡されているのです。
そういう、もう二度は書けない手紙のようなものでないとしたら、少なくともそんな息の一つも吹き込まれていないのだとしたら、書くことなど何事か、とも考えます。
これはある種の暴力なのですが、誰が暴力を振るっているのか、世界の内側の者たちが何と言おうと、そんな明日も明後日もも息を吸ったり吐いたりするつもりのディスクールに構う必要はありません。
眠ってまた目覚めた時にそれが(わたしであるかどうかはともかく)誰かではありますように、という祈りが、少なくとも配達はされますように、ということでしょう。
配達人は手紙の中身など読まないのです。