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名付けと固有名詞 日本・西洋・アラブ

 大抵のアラブ人の名前には意味があり、多くの場合「ムハンマド」「アブドゥッラー」(神の僕)のように宗教的語彙構造に根を持っている。これは欧米のキリスト教文化圏でも同じで、マイケルだってミカエルなわけで、まったく一から作ったような人名というのは稀だと思う。
 対して、日本人の名前はどうだろうか。
 欧米人やアラブ人およびアラブ以外のイスラーム圏でアラビア語で名前をつける場合に比べて、非常にバラエティに富んでいる。特に最近は、名前の漢字だけでは読み方のわからないものもよく見かける。
 宗教的背景がないのは、単にほとんどの人が特定の宗教に帰属意識を持っていないからだろうが、それにしてもこのバラバラ具合は凄い。
 なぜ日本人の名前は、これほど多様で、「無意味」、つまり名としての特定の参照先を持っていないのだろうか。

 一つの理由は、漢字そのものが意味を持っている、ということだろう。セム系一神教の文化圏において宗教が意味の背景を形成しているのに対し、漢字文化圏では、文字そのものが意味を持っている。この意味は、多くの場合、日常生活では意識されない。最近、こざと偏には「丘」という原義がある、ということを知ったのだけれど(確かに階も陸もどことなく丘っぽい)、通常の言語生活でこれを意識することはない。だからこそ、名付けには漢字そのものの意味が用いられる。ちょうど「マイケル」という名前の人物やその家族が、日頃天使ミカエルのことなど意識しないように、「美子」という名前の人がいても、毎日「美しい」などとは考えないだろう。名付けにおいては、漢字の原意味が宗教的語彙体系のように働いている。
 中国語も韓国語も理解しないので、まったくおぼつかないのだけれど、中国語における漢字はほぼ表音文字で、韓国語における漢字の使用頻度・重要度は、日本語におけるそれよりずっと低い、と聞く。それでも、名付けにおいてだけは、こうした国々でも漢字の意味が意識されるのではないだろうか。

 もう一つ関係がありそうなのは、日本では個人名(ファーストネーム)の使用頻度が低い、ということだ。多くの文化圏で、名前は個人名と帰属名から構成されるが、日本では帰属名である姓の使用頻度が非常に高く、そうでない場合も「部長」などと帰属や社会的ロールを示す言葉で名前が代用されることが多い。個人名は「忌み名」とも言われ、ハラーム的なるもの(聖別化され、忌まれるもの)とされてきた。また、伝統的には、成長の各段階で新しい名前が付される、ということもあった。
 関係性を呼称にするのは日本だけではないし、アラブでもアブー・バクル(バクルのお父さん)のように、いくつかのパターンで関係性を名前とすることが珍しくない。しかし一般的に見れば、やはり日本の「関係呼称」の偏重は著しいように思う。
 逆に言えば、個人名という(あまり使われない)場所さえ参照すれば、単独性そのものと向き合うことができる、ということだ。単独性は聖別化されている。西洋やアラブでは、個人名は多用されるため、そんな場所に聖別化された単独性そのものをポンと露出しておくわけにはいかない。日本では、個人名に露骨に単独性を書き込んでおいても、親しい間柄でしか使われないので、安全である。それゆえ、個人名では単独性が如何なく発揮されるよう、趣向が凝らされる。

 なぜ単独性が危険なのかといえば、意味が無意味に立脚していることを顕にしてしまうからだ。
 言うまでもなく、言葉の意味とは、言葉から言葉に回付される運動に宿るのであり、語そのものの音には「意味がない」。なぜ林檎がappleなのか、というところに、何の根拠もない。意味の意味をどんどん辿っていくと、最後には無根拠な無意味に到達せざるを得ない。意味は無意味に支えられている。
 日常生活では、こうした点は意識されず、言葉の意味が言葉そのものに内在されているかのように、わたしたちは振舞っている。言葉は一人ぼっちでも意味あるのだと、漠然と感じている。
 ところがここに、本当に一人ぼっちで、言語経済の中でポツンと佇み、誰とも交換されない、つまり意味=交換価値というものを持たない言葉があると、それは言葉でありながら言葉ではないような、言葉の世界にモノそのものが突然入り込んだような、不気味な存在感を醸し出す。テクスト全体が無意味だとしたら、わたしたちはそれを無視することができる。まったく意味を見出すことができないような音の塊を、わたしたちは言語とはみなさないのだ。しかし、ほぼ理解できるテクストの中に、一つ無意味なポイントがあったとき、わたしたちはこれを無視することができない。わたしたちは、言語を「基本的に意味をなすもの」「翻訳可能なもの」としてとらえる。だから、この無意味な点は、完全に言語の外に放り出されることもなく、交換されないまま言語経済の中に留まってしまう。
 この無意味な点が暗示するのは、実は言葉にはそれ自体の意味などなく、ただ交換されるためだけに流れている、という事実だ。だから単独性は危険なのだ。わたしたちのファンタジーを、破ってしまう恐れがあるから。
 無意味なものはハラームだ。つまり、聖であると同時に(それゆえにこそ)禁忌であり、忌むべきものだ。聖域であり、通常の生産活動を禁じられた空間だ。
 宗教的ディスクールには、こうした「無意味」がしばしば見られる。呪文や形骸化した念仏の類、クルアーンにおける神秘文字のようなもの(「ターハー」等の、単語としての意味を持たない音の組合せ)が、これにあたる。
 交換されざるもの、流れを止めてしまうものを否とするのも、多くの宗教に見られる。利子が禁止されるのは、それが貨幣の交換という流れを留めることにより利益を生むものだからだ1。イスラームでは吝嗇や共同体に還元されない蓄財も批判される。世界は原則として意味のあるもの、つまり交換されるものによって成り立ち、そうでないものはハラームな局所にあり言語全体を「ピン留め」する最少量に留めるべきなのだ。

 だから、人間個人の名前も意味を持つ必要がある。一人ひとりはまぎれもなく単独的なものだが、その単独性が前景化すると、言語経済そのものを危機にさらすことになる。それゆえ、単独性は隠ぺいされ、通常は関係性を示す言葉が使われる。苗字のような帰属名や、宗教的背景を持つ名前、つまり「われわれのディスクール」にあらかじめ据えられたレディメイドの名前である。
 本当のところ、人はすべてオーダーメイドで、そればかりか生も世界も一回的でやり直しが利かない。それはわかっているのだけれど、平時からこれを前景化することは禁じられている。「人間は基本ホメオスタシスで生きよ、死の欲動やエントロピー増大の法則は、ハラームとする」というわけだ。プラグマティックに言えば、社会の平安と安定のための知恵だが、正しくは、サンボリックな世界とは、そもそも閉じた円環的・空間的世界(エネルギー保存則的世界)なのだ。
 人間の名前で特にこれが問題になるのは、固有名詞というのは、単独性と交換経済が接する非常にクリティカルな領域だからだ。一歩間違えると経済を崩壊させかねない、リスキーな領域だ。だから、固有名詞には特別な配慮が施される。

 日本人の名前の多様性は、漢字自体の有意味性と、ファーストネームの使用頻度の低さから、単独性の危険を社会にもちこまない、と免除されているのだろう。
 しかし、昨今の名づけの暴走振りを眺めると、いささかの危惧を抱かないわけでもない。わたしたちは本当に、無意味を世界に持ち込んでしまっているのではないか。ただ一か所に留まり、蓄財し利子を待つかのような「交換されざる危険分子」を生み出してはいないか。欧米の影響を色濃く受けながら、一神教的バックグラウンドが依然導入されないこの社会は、本当に根なし草で、人ならぬモノと化しつつあるのではないか。
 名づけの傾向には、そんな危うさが映されている気がしないでもない。

  1. 以下参照
    「『イスラーム金融―贈与と交換、その共存のシステムを解く』櫻井秀子」
    「不滅のものは増殖してはならない」
    「エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融」 []
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