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ヤケッパチと運命の馬鹿力

 共謀罪でも何でも良いのだけれど、何らかの「安定化」を目指すものというのは要するに現状・現体制の強化を目論むものだ。もちろん悪いとは言わない。その現状・現体制の中には一応わたしたちも含まれていて、なにはともあれ今日までこの世界で生きてきたのだから、現状維持すれば明日明後日あたりまでは生きながらることができるかもしれない。少なくとも、「この世界」にわたしたちは大分慣れているし、年齢を重ねていればより一層、今に至るこの世の中と一体になって生きている。
 とはいえ、本当のことを言えば、そうした施策で本当に特をするのはゲーテッドシティの中に住んでいる人たち、壁の内側にいる人たちだけだ。問題はどの辺に壁があるか、だ。壁がそびえる位置というのはなかなかに微妙なもので、共謀罪と消費税増税でもまた違う。もう一つ重要なことに、今現在壁の外側にいる人たちにも、壁の内側に入るチャンスというのがゼロではない。この「ゼロではない」というのが非常に厄介なもので、可能性というファンタジーが信用取引のようにレバレッジを効かせている。
 どういうことかと言えば、実際上、階層の移動というのは簡単なことではない。格差の拡大とか社会階層の固定化といったことが指摘されているけれど、特に今日に至らずとも、人類は大体親兄弟地元の世界で生まれて生きて死ぬもので、ダイナミックに階層が移動する状況の方が、地理的・時代的に特異なものだと思った方がいい。にも関わらず、可能性とか夢とかチャレンジとか、そういうフワフワしたものをチラつかせることで、愚かな大衆は希望を抱いてしまう。人は何でも良い方に、自分に都合の良いようにものごと考えたいものだ。負ける前提で博打を打つ人はいない。結果、ゲーテッドシティの真ん中に居座る人たちは、少ない掛け金で大きくアホどもを釣ることができる。ファンタジーによるレバレッジだ。
 もちろん、「改革的」操作によって、階層の流動性を多少なりとも上げることは可能だろう。ただ一つには、どんなに頑張ってもたかが知れていて、第二に、流動性が極度に高い社会というのは要するに不安定な社会であって、真ん中の方の人にとっては極めて都合が悪いので実現困難なだけでなく、既にファンタジーで釣られている「真ん中に行けるかもしれない」希望に溢れる人々にとってもネガティヴに働いてしまう。彼らはあくまで、システムが安定している前提で、そのシステムの中での上位に一本釣りされる夢を抱いているのだ。第三に、中途半端にちょっとだけ流動性が上がってしまうと、かえってファンタジーの土台を強化することになって、墓穴を掘ることにもなりかねない。
 だから、こうした搾取構造に本当に抵抗して、うまいこと得をしてやろう、と思うなら、ある意味ヤケッパチにならないといけない。ヤケッパチというのはあまり良いものではない。普通は諌められる。だからここでも、抵抗というのは「悪い」ものだ。
 ヤケッパチというのは、可能性とか夢とか希望とかいうものを、一旦全部捨ててしまうことだ。言わば自分自身を掛け金として賭場に投げ込む。ラカンではないけれど、「自由か死か」と問われて死を選ぶことで初めて得られる自由というのがある。これがヤケッパチの力である。実際、ヤケッパチの方が事実としては色々正しい。ファンタジーの覆いを取り去ってみれば、壁の内側に入れるチャンスなど万に一つもないのだ。人生たかがしれている。諦めてヤケッパチになればよろしい。
 しかし実際のところは、多くの人々はなかなかヤケッパチにならない。やはり人は、夢や希望を抱いて生きたいのだ。死にたい死にたいという人も、現状の自分自身とか周囲との関係とか社会とかに絶望しているだけで、本当のところは明日も明後日も息を吸ったり吐いたりしていきたいのだ。わたしだってそうだ。だから本当に、可能性による搾取というのは強力なのである。
 ここで一つ、ヤケッパチと同期するものがある。運命である。この頃の社会では「努力か才能か」みたいな問いの立て方がされる。努力というのは、もちろん可能性の側のワードで、搾取の方便である。努力なんかしたって無駄に決まっている。だから才能か。それでも生ぬるい。運命というのは、努力から才能に向かうベクトルを更に延長したところに位置する、最右翼の思想である。なにせ運命なのだから、何をしたって無駄なのである。
 無駄だから何もしないのか。そうではない。運命というのは決定されているから運命なのだけれど、神様に電話して尋ねることはできない。もちろん、ここで言う運命というのは、一神教的な激烈な神様観とセットになっているので、デパートの最上階で衝立の向こうの占い師にたずねて答えの出るものでもない。運命は誰にもわからない。だから運命論というのは、実際のところは何も言っていないのと同じことである。運命があろうがなかろうが、やることは変わらないし、現象も同じだ。
 でも、やるんだよ!の精神である。だから運命については「信じる」と言うのだ。手相占いのおばちゃんに適当に予言を吐かせて、そのまま三年寝かせて当たったかどうか検証できるなら、それは信じるとか信じないとかいう話ではない。実験すればいい。そういうレベルのところにはもう全然ないので、信じるしかないのが運命である。神様とか預言者とか天使というのも一緒である。
 だから、運命を信じても特に現象的には何も変わらない。努力するのも自由である。実際、努力というのはなかなか楽しいもので、箱庭的に小さなエリアで競争したり、毎日ちょっとずつ自分のレベルが上がるのは死ぬまでの暇つぶしにもってこいだ。多いに努力したら良いと思う。ただし運命は変わらない。
 この運命というものは、ヤケッパチとなかなかに相性が良い。世界の内側における努力とその成果の相関性であるとか、社会が約束してくれる報酬であるとか、そういうものをすべてぶった切ってしまうのがヤケッパチであり、運命だ。そんな内側のところの事情など、もう全然関係ないところで趣味的に努力してしまう。
 これに来世への信仰が加わればさらに強力になる。努力しても努力しても、この世界で報われることはない。当たり前だ。まぁ、宝くじが当たる程度にはうまくいくかもしれないが、そんな簡単にポンポン成功できてしまっては胴元が儲からない。社会は胴元が得するようにしかできていない。現世はそういうものだ。しかし来世はどうか。来世がどうなるかは神様にしかわからない。要するにわからない。これも信じるしかないものだ。それで強力に信じて、胴元にとっては死ぬほど都合の悪い努力を猛烈にして、天国に入れる、死後報奨に預かれる、と考えることもできる。
 この信心の馬鹿力というのは、可能性のファンタジーに対して、ほとんど唯一対抗できるかもしれないパワーを持つものだ。正確に言えば、ポルポト的なモーレツ共産主義なども一時的なパワーを持っていたけれど、今はちょっと厳しい。もちろん、またこれから先には別のものが出てくるかもしれない。ただ確かなのは、運命と来世に対する信心パワーというのは、少なくともここ数千年くらいは勢いを持っている伝統と信頼の馬鹿力であり、多分あと数千年くらいは変わらない。歴史上、権力は信心パワーを恐れてきたし、実際、馬鹿力で胴元がブチ殺されたことも何度もある。中華の共産党も法輪功を恐れるわけである。
 合衆国などは、そもそもの国の成り立ちからして極右のイカれた宗教野郎どもが作ったようなもので、そうした勢いがすっかり収まってお上品な外面を構えるようになってからも、宗教右派的なものを生かさず殺さず、適度な位置に保つことで成り立っている。そうしたパワーをあまりに邪険にして、ヒラリー的なすまし顔を見せると、脂ぎった親父の大逆襲を受ける羽目になる。妊娠中絶の是非とか、本邦の多くの市民にとっては今ひとつピンとこないイシューが大統領選を左右するようなテーマになるのは、そうした事情があるからである。
 だから、これを言ってしまうと墓穴を掘るというか、わたし個人にとっては大変都合が悪いのであまり言いたくないのだけれど、いわゆる「イスラーム過激派」に対する一定層の警戒感というのは、それなりに当たっているわけである。信心パワーというのは恐ろしいものなので、胴元はいつも恐れている。
 ただまったくもってよくよく考えて頂きたいのだけれど、胴元の見せ金というのは嘘なのだ。彼らは彼ら自身が最終的に得するようにしか振る舞わない。当たり前だ。わたしだって胴元側に立てばそうする。だからといって、「あいつらは嘘つきだ」と左翼的に本当のことを言っても、人々はついてこない。先述の通り、夢と希望の力は凄まじいからだ。だから嘘など暴く必要はない。もっと嘘をついてもいいくらいだ。別の夢をみればいい。ヤケッパチは別の夢を見る。
 ヤケッパチでも夢があれば人は生きられる。人は誰でも、「ここ」で生きているつもりで、同時に「あそこ」でも生きている。壁の外にいながら壁の中にいるような夢を見て、バラエティのひな壇とか世界戦のリングの中とかに自らの幻影を見出して生きている。ならば来世にそれを見ても良いことだ。逆に言えば、来世というのはそういうものだ。テレビの向こうのフィールド、イケメン俳優とかグラビアアイドルとかと並んで輝いているあの場所だ。所詮人の見られる夢などその程度だ。夢を見ながらなおヤケッパチというのも可能なのである。
 改革など全部無駄である。だから個人的に、政治のニュースはすべて痛快だ。うまくいけばもちろん結構だし、悪くなってもこの世界が滅ぶだけ、どっちにしろ損などない。わたしたちの夢はこんな場所にはないのだ。
 こうして生きれば人生は楽しい。死んでも天国、損はない。

kharuuf

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