誰しも成功したいとかお金が欲しいとかいうことを考えるものですが、単に「成功したい」のではなく、「運良く成功したい」欲というものがあります。
一般的に考えられている努力のルートを経過して、結果うまく行く、というのではなく、そういう手続きを一切踏んでいないにも関わらず、偶然が重なって他律的に成功してみたい、ということです。
言うまでもなく、この欲は「楽してうまくやりたい」という至極平凡な欲に相当程度還元可能なのですが、なにか余りがあります。
「運良く成功する」ことは、必ずしも楽なわけではありません。例えば来月中にどうしても十万円必要で、それを叶えるために御百度参りする、というのは、普通にバイトするより大変そうです。娘が水疱瘡にかかって大変な時は、水垢離するより病院に連れていくべきですが、水垢離が楽かといえばそうでもないでしょう。これらのアプローチは、非合理的だったり無意味であったりはしますが、必ずしも楽なわけではありません。そして、これらの方法を採ってしまう人というのが、皆が皆単に無知で正常な判断力を失っているかというと、そういうわけでもありません。普段は世間の相場に従って行動している人でも、験を担いでみたくなるということはあります。「運良く成功する」、もっと言えば「運」というものには、やはり何か、合理性を越えてわたしたちを魅惑するものがあります。
運ということは、受動的ということです。自分の意志を越えたところで、結果、自分にとっても幸いになる、自分が考えていた以上に幸いになる、ということです。他人にマッサージしてもらう方が気持ち良いのにも似ています。
たまたまラジオを聞いていたら、ある男性タレントが性的妄想として「道を歩いていると窓が開いて好みの女性が手招きする」というのを語っていましたが、こういう超ご都合主義的なファンタジーというのは誰にもあるでしょう。白馬の王子様のようなものです。もちろん、こんなものはまず実現はしないのですが、単に楽をしたいというだけでなく、他律的に(責任を免除されて、あれよあれよという間に、自分で決定行動するよりも巧みに)うまく行きたい、という欲というのが奥底にあります。
時に他人は、わたし以上にわたしのことを知っています。つまり、「わたしの背中に書かれた文字を読んでくれる人」を期待しているのです。
もちろん、普通はなかなか読んで貰えず、読んでくれても「自分で読んだ方がマシ」な程度にしかやってくれません。しかし「読んでくれる」という期待、ご都合主義的な欲、ナルシシズム的なものがあるから、他人への期待が発生し、結果、部分的にチラッと読んでくれる人と、部分的に関係できるのです。
ご都合主義がそのままに保存され閉じてしまうのは非常に危険なことですが、これがゼロになってしまうと、不思議なことに、他人への期待もまたゼロになります。そういう人は、自助努力・自立の人として立派に見えるかもしれませんが、究極に推し進められると、また別の仕方で他者のいない閉じた世界へと行き着くのです。
運にだけ頼って生きていくことはできませんし、極力これは切り詰めないといけないのですが、この薄い期待がぼんやりと共有されることで、わたしたちは互いに勘違いし(理解の失敗!)、結果、袖を触れ合わせることができているのかと思っています。