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菅原敬太『鉄民』とアンティゴネー

鉄民(1) (アクションコミックス)
菅原 敬太
双葉社 2015-04-28

 菅原敬太さんの『鉄民』というコミックです。
 最初に大変失礼なことを書くと、マンガそのものとしては万人にはお薦めはしません。わたし個人としても、絵柄も不気味で、セクシュアルな表現というか女性の描き方も気持ちが悪いのですが、ホラー漫画ということではプラスともとれます。とにかく色々気持ち悪いのですが、その気持ち悪さというのが一周回って形として結実している作品です。
 そして何より、構造としてはとても興味深いものがあり、まるでギリシャ悲劇のような見事な展開を見せてくれます。おまけに三巻完結なので購入もしやすいです。
 物語の舞台は沙々来島という離島。そこに住む滝沢美絽は弓道を楽しむ女子高校生ですが、色々な恐怖症を抱えていて気が弱いところがあります。ある日、拾った携帯電話からの指示に従い神社の境内に入ると、人間そっくりのロボットのようなものに襲われます。携帯からの声によると、それは鉄民というロボットで、皮一枚下は機械仕掛けで、既に沙々来島の住民のかなりの者が鉄民と入れ替わっている、というのです。
 以下、ネタバレを含むので一応注意です。

 まず、人間そっくりのものが世界に侵入していて、いつの間にか普通の人びとと入れ替わっている、というモチーフはよくあるものです。わたしたちは、わたしたち自身の心については確からしさを持っている(と信じて)いますが、他人については、本当に自分と同じ「心」を持っているのか、確かめることができません。「心」の働きがあるかのように完全にトレースするロボットがいたとして、それと人間を区別することができるのか、というのは伝統的な問いです。自分以外はすべて作り物なのではないか、薄皮一枚剥がすとグロテスクな風景が広がっているのではないか、というのは根源的な不安なわけです。世界がすべてカキワリのように見える、離人症的な風景を連想させます。
 そして、実は自分自身がロボットだった、というのは、これもよくあるオチです。現象において「人間」と「人間そっくり」を区別することはできないのですから、そこから転じて、実は自分も作り物なのではないか、「そっくり」なだけで中身がないのではないか、という不安も常につきまとうわけです。
 映画『ブレードランナー』のラスト近くでも「自分も偽物では」という不安が取り上げられますが、『鉄民』の面白いところは、それが最初に提示されてしまうところです。つまり、滝沢美絽自身が実は鉄民で、いつの間にか本物と入れ替わっていたのに記憶を失っていた、ということが第一話で明らかにされてしまうのです。
 ここではっきりするのは、実のところ「自分も偽物なのではないか」というのは本質的な問いではない、ということです。偽物だということが分かったところで、その不安は消えないのです。「偽物なのではないか」という不安は、本物なら安心で偽物だと困る、というところから来るのではなく、両者に本質的な差異がなく地続きであり、確かな支えなどどこにもない、ということに由来しているのです。もっと言ってしまえば、「本物である」という確信こそが、狂気の始まりです。わたしたち(神経症者)は、自分たちが偽物なのか本物なのかわからないまま、全く別の方法でこの不安を仲裁しているのです。
 『鉄民』の世界観は、このように非常に分裂病(統合失調症)的な世界観になっていて、とりわけ前半の展開はまったく独我論の世界です。この世界に欠けているのは大文字の他者です。絶対的な仲裁者(の想定)が欠落しているために、「わたし」と他我の想像的な合わせ鏡のような状態になってしまい、その無限の光の反射に主人公は翻弄されるのです。
 ラカン的文脈で言う精神病に親和的な人物が、常に誰かモデル的人物のトレースとして生きてきて(空っぽ、偽物)、人生のある段階で社会的役割を求められる等の契機に出会い、突然に発症する、という例があります。薄皮一枚のところで生きてきたものが、最初に踏むべき楔を打ち込む作業、確からしさ(という幻想)を共有する契機を欠いていることに、ある時突然気付かされるのです。そこで世界は一斉に崩壊し、今まで通奏低音的に流れていた不安が一気に顕在化します。それをなんとか支え、無理やりにでもバラバラになりそうな世界を繋ぎとめようとするのが、妄想的な世界理解です。例えば陰謀論のような「統一理論」となり、強引にでも世界を崩壊から救おうとするのです。

 『鉄民』の物語は、美絽がある日、人びとの多くが鉄民と入れ替わっていることに気づき、同時に自分も鉄民であることを知ることから始まります。しかし、今まで皮一枚でやり過ごしてきただけで、それまでにもずっと言い知れない不安があったのです。それが物語で美絽の抱える「様々な恐怖症」として表現されていることです。そしてある日、その不安が「分かって」しまいます。この確信が発症です。契機となっているのは、美絽が淡い恋心を抱く串田先輩との会話です。彼女は自分のうちに湧き上がる奇妙な感情を位置づけることができず、一気に不安が表面化してしまいます。「ハリボテの自分の中には、これを位置づけるべき場所がない」。そして崩壊しかけた世界をギリギリでつなぎとめるためにやってくるのが、鉄民という「統一理論」なのです。
 美絽は自分が鉄民だとわかっているのですが、それでも人間たちを鉄民から守ろうとします。鉄民であるなら鉄民の立場に立って行動しても良さそうなのですが、彼女の意識はあくまで人間で、携帯の主からの「不良品」と呼ばれます。ここでもまた、鉄民か人間か、という問いが本質でないことが仄めかされています。彼女は最初から「自分の役割」がわからないのです。背中に書かれた文字が読めないのです。そのわからなさを「実は鉄民だった」ということで埋め合わせようとしているのですが、鉄民であろうが人間であろうが、彼女の欠落は埋まっていません。
 物語が進むと、彼女は「本物の美絽」と出会い、「偽者」と罵倒され、殺されかけます。重症を追いながらも鉄民であるがゆえの生命力で生き延びるのですが(鉄の生命!)、後にこの「本物の美絽」もまた鉄民であることが分かります。「本物の美絽」とは自分を本物だと思っている偽物で、自分を偽物だと知っている偽物たる主人公の美絽に成り代わりにやって来たのです。主人公は自分が偽物だと知っている偽物なので、一貫はしているはずなのですが、それが故に「不良品」であり、それを「自分を本物だと思っている偽物」が殺しに来るのです。薄い真実、表面的な妥当性(validity)は、むしろ「不良品」の証しである、ということです。いわゆる「屁理屈」の何が間違っているのか、ここで示されています。彼女は「本物か偽物か」という表面的な系の中では正しいことを知っているのですが、その知自体が、世界における彼女の場所を抹消しているのです。
 新しい鉄民美絽(自分を本物だと思っている偽者)は美絽になりすまして、彼女が思いを寄せる串田先輩に近づき、殺そうとします。先輩を守るために美絽は新たな鉄民美絽と戦うのですが、両者を区別できない先輩に対し「わたしたちは美絽ではありません、ごめんなさい」と訴えかけます。そのことで逆説的にも、串田先輩は主人公の方の美絽を「本物」と認識します。
 しかし実際は、「両方共偽物」なのです。繰り返しますが、本物か偽物か、ということは本質ではないのです。ただ先輩に本物として認識されることは意味があります。彼への感情は美絽の世界を瓦解させた契機ですが、同時に彼は、本当の他者として彼女に立ち現われようとしています。二人の美絽が対峙している時、新しい偽物の美絽が言います。「あたしとおまえ、どっちがほんものか、それを決めるのは、私たちじゃない」。このほとんど文字通りの合わせ鏡、私と他我との無限地獄を仲裁するのは「わたしたちではないもの」です。
 劇中で鉄民は、それが鉄民だとはっきりしたときに独特の黒目だけの不気味な目で描写されるのですが、この台詞を言い終わった時、新しい鉄民美絽の目が鉄民のそれから人間に変わります。この時、人間美絽対鉄民美絽という構図が、人間美絽対人間美絽になります。それは「わたしたち」という終わりのない地獄です。
 そこに現れた串田先輩に「本物」として選ばれることで、一旦は彼女に居場所が与えられたかに見えるのですが、一人間による仲裁は実際にはうまく機能しません。大文字の他者を知らずに育ってきてしまった者は、「並み居る人間ども」の人並みな言葉たちではそうそう救われないのです。合わせ鏡は、その間に入った者も巻き込み無限の反射を繰り返します。
 串田先輩を守ろうとした主人公は、戦いの中で顔の皮膚が剥がれ、中の鉄がむき出しになってしまいます。それを見た串田先輩は、「化け物!」と言って逃げ出してしまうのです。まるで性交渉に臨み、グロテスクなものが露呈し、拒絶されるかのように。
 グロテスクな偽物を救うのは、「グロテスクでもいい、それを本物として受け入れる」などという甘言ではありません。ヒト同士の二者関係の中に、そんな圧倒的力は宿りません。性関係は常に成立しないのですが、そこを「つつがなくやらせる」ファンタジーは、その場にいる二者からではない、別のところから来るのです。
 こうして最初の仲裁の試みは失敗に終わります。

 美絽はその後、親切な女性の先輩、黒岩にかくまってもらいますが、この黒岩先輩が串田先輩に思いを寄せていることを知り、複雑な心境になります。そして翌日目覚めてみると、黒岩先輩は死んでいます。
 彼女はそれを自分が殺したと思い、とうとう海に飛び降りて自殺してしまいます。
 しかし彼女は鉄民ですから、バラバラになっても死なず、茜という青年によって拾い上げられ、四ヶ月かけて復活させられます。
 それから美絽は、自分が偽物か本物か、といった系から離れ、入れ替えられた人びとを救うためにはどうしたらいいのか、考えが切り替わります。そこではじめて、美絽は何か別のものになっていきます。
 それと同時に、彼女は思い出します。ピアニストになる夢を怪我で絶たれた父親に英才教育を受けるものの、その期待にこたえられず、自ら腕を傷つけてピアノを離れたことを。
 そしてまた、自分を救った茜にもまた、「よそよそしい父」がいることが分かります。茜は叔父にあたる住職に育てられているのですが、表向きは柔和な住職はまったくの偽善者で、腹黒い人物なのです。彼の恐怖政治的な養育は、美絽の父親の英才教育とクロスオーバーします。
 そして、この住職こそが、美絽が最初に拾った携帯の主なのです。彼は一度鉄民に誘拐され、入れ替わられるものの、脱走を果たし、鉄民への報復を誓っているのです。
 加えて、住職と美絽の父親が通じていることも描写されます。この二人はいずれも、表面的には過剰なまでにパターナルな人物でありながら、その実、中身のない人間です。
 生き返った美絽は、かつては想像できなかった毅然さをもって茜に「携帯の主」の正体を迫り、住職と接触します。鉄民を憎む住職は最初は拒絶しますが、鉄民への反攻のために共に本土へ渡ることをしぶしぶ了承します。
 そしてとうとう、彼女たちは人類のために本土に舟で渡るのですが、そこで衝撃的な真実が明らかにされます。
 実は人類が生きているのは沙々来島だけで、他の人間はすべて伝染病によって滅んでおり、本土は鉄の大地に覆われていたのです。今生きている人びとは、病原菌が死滅するまでシェルターで眠らされていた人びとで、知性に目覚めた人工知能が人類を保護するために隔離していたものなのです。
 鉄民とは、人工知能が作り出したロボットであり、その目的は人類の保護だったのです。沙々来島に残った人類を守るため、その中で自殺や犯罪の可能性のあるものを鉄民と入れ替え、平穏な生活を保ち、一方で入れ替えられた人びとも別のドーム型施設で生きながらえていたのです。
 その様について「人間が野生動物を保護するために麻酔銃を使うようなもの」と描写されていますが、奇しくもわたし自身、こういう想像を頻繁にしています。

 野生動物を扱ったテレビドキュメンタリーで、サイを助けるためにヘリコプターで吊るして運ぶ、という場面を見たことがあります。
 ヘリからブラーンとぶら下げられたサイの心境としては、言語を絶する恐怖だったことでしょう。わたしなら絶対イヤです。
 人生には、サイがヘリからぶら下げられるくらい不条理で意味不明な恐れや苦しみ、不安というのが時としてあります。
 そういう時は、「きっと動物レスキューの人がわたしを助けるためにやっているんだ、きっと何かの意味があって、今は分からなくても、死んだら質問できるんだ」と考えるようにしています。
羊は迷うのか

 わたしたちの人生では、良いことも悪いことも起こります。それがすべて運命なのだとしたら、その運命を課した神様を憎む、という人もいるでしょう。
 しかしそれは、あくまで地べたを這いまわるわたしたち人間の視点です。神様の視点からすれば、丁度麻酔銃を撃つレンジャーの人のように、その苦しみもまた彼ら自身のためかもしれません。もちろん、わたしたちは自分たちを超える知性というものを(原理上)理解できませんから、本当にそれが「良いこと」なのかどうかは確かめようもありません。しかし、「そこから見ればすべてが良きことで、すべてがあるがままにある」視点というものを、想像することができます。
 鉄民とは、その視点から見て遣わされた災厄であり、祝福だったのです。まるで陽性症状としての妄想が、陰性症状としての根源的不安と世界の瓦解を防ぐための「治癒の過程」であるかのように。
 まるで映画『ミスト』のような「何もしない方がマシだった」バッドエンドになりそうなところですが、物語はまだ続きます。
 鉄民を憎む住職は断固として「偽物」を受け入れず、さらに入れ替えられた人びとも沙々来島にいる人びとも、殺人ウィルスで滅ぼそうとします。
 美絽と茜は二人で島に戻り、ウィルス爆弾を処理しようとします。しかし美絽は度重なる戦いで既に皮膚が剥がれ、中身の機械がむき出しになっています。それを見た沙々来島の人びとは「化け物!」と驚き罵ります。
 ここで彼女は、正に自分自身が「神に遣わされた災厄」となっています。災厄は理解されません。サイにとってのヘリコプター、野生の猿にとっての麻酔銃のように、ただ恐怖され嫌悪されます。しかし美絽はそんなことを気にかけません。もはや彼女は、自分が機械仕掛けの化け物であるかどうか、そんな場所には立っていないのです。
 なんとか爆弾を回収した二人はボートで洋上に脱出し、そのまま自爆に向かいます。
 美絽は最後に茜に語りかけます。
「最後に隣りにいるのが、こんな醜い鉄民ですみません」
「俺は一度だって、君を鉄民だと思ったことはないよ。君はずっと前から、立派な人間じゃないか」
 彼女は一回死ぬことで「本物か偽物か」という合わせ鏡的な系を離れ、残された人びとを救うために残酷な現実の中に入っていき、そして最後に、二度目の死の間際に、遡及的に「人間であった」と認められるのです。
 まるで『アンティゴネー』のような見事な構成です。

 美絽は最初から言いようのない不安、寄る辺なさを抱えていますが、串田先輩への恋という処理しきれない感情によって「お前は何者なのか」という問いをつきつけられます。そして世界を瓦解から救うために、鉄民という統一理論に出会います。つまり本物と偽物がいて、世界は偽物に侵食されつつあり、しかも自分自身も偽物である、という固定的な世界です。
 しかしこの物質と言葉が張り付いたような世界では、次々とやってくる感情、心の動きに対応できません。彼女が戦っているのは、自分自身の心の波、出処のわからない衝動です。人の手による仲裁(串田先輩)も機能しません。その結果、彼女は一度死を選びます。
 茜の手によって復活させられた時、文字通り彼女は生まれ変わります。彼女を蘇らせたのは、直接的には自分と同じ「弱き者」としての茜です。しかし彼女の歩く道は、見えざる知性によって示されたものです。
 彼女は自分が父の要求に応えられなかったことを思い出し(このエピソードは神経症的で少し違和感がありますが)、自分と同じようにどこか自信の欠けた男性・茜と共に、「知っている者」たる住職と向き合います。住職の拒絶にも関わらず、彼女らは大きな目的のために共に本土へ上陸し、そこで「本当の真実」と出会います。その真実は、「知っている者」の語っていた物語とはまるで異なり、「知っている者」こそただのハリボテに過ぎなかったことが分かります。「知っている者」が想定され、抹消される、というプロセスです。欠如のない象徴的な系など存在しないのです。それは「正常な世界」のために常に想定され、エネルギーを差し向けられますが、固定的ではなく、不断に否定され乗り越えられていくものです。
 しかし今度の美絽は、そんなことでは止まりません。醜い「偽物」の姿を晒し、人びとに「化け物」と罵られながら、その自分を否定する人びとのために、自ら犠牲になるのです。
 『アンティゴネー』では、テーバイの王位をめぐってアンティゴネーの兄弟、ポリュネイケースとエテオクレースが争います。テーバイに攻め寄るポリュネイケースと王位にあるエテオクレースは相討ちとなり、空位となった王座にクレオーンが就きます。クレオーンは共同体の秩序を守るっため、「反逆者」ポリュネイケースの埋葬を禁じます。
 しかしアンティゴネーは、自ら城門を出て、人びとの前でポリュネイケースに砂をかけます。結果、牢で自害することとなり、アンティゴネーの婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンも自刃します。
 アンティゴネーを突き動かしているのは、共同体の父性的掟を超える秩序です。それは人びとには「理解できないもの」です。復活した美絽もまた、「化け物」と罵られながら、沙々来島の人びとを救い、自らの命を燃やします。
 クレオーンの位置にあるのは、父性的権威を象徴する住職です。そして茜はその息子ハイモーンであり、彼もまた、戦いの末に自刃するのです。
 いかなる掟も、彼女を「真人間」として認めません。彼女は醜い機械の身体を晒した化け物です。そして最後に、最後にだけ、「お前は最初から人間であった」と遡及的に告げられるのです。

「私は自分が死ぬのを知っています。それは避けられぬことで、たとえあなたの勅令がなくとも死ぬのです」(アンティゴネー)

追記:
 上で書き忘れた点を追記しておきます。

 一つは、物語の始まり=「発症」が拾った携帯にかかってくる電話、ということです。文字通り「電波が来る」「声が聞こえる」ことが始まりになっています。最初に声が聞こえ、その指示に従い神社に行くと、そこで鉄民と出会うのです。
 この携帯電話の主は、結局住職だということがわかるのですが、物語上、この携帯電話の着信音は鉄民にしか聞こえない、ということになっています。つまり、住職はこの電話を使って鉄民を識別していたのです。正に「特定の人びとにだけ語りかける声」です。
 この「声」は鉄民にだけ聞こえる声ですが、より正確には「本物と偽者を区別する声」で、すなわち「本物か偽者か」という系自体を導入する声です。
 つまりこの声によって、美絽は自らの不安を「本物か偽者か」というニセの問いを通じ実体化するのです。

 もう一つは「本土」の役割です。
 物語はほとんどが沙々来島を舞台にしており、本土が登場するのは、ラスト部分を除くと、大怪我を負った不埒な理科教師が「島の診療所では治療できない」として舟で送られる場面だけです。そしてラストの下りで、本土には鉄民と入れ替わって誘拐された人びとが暮らしている場所があります。
 つまり、この物語における本土は露骨に「彼岸」、つまりあの世を表象しています。
 死に瀕した男が送られる場所、いなくなった人びとが暮らしている場所が、舟で渡った先、三途の川の向こうたるところの彼岸です。
 物語終盤で彼岸に渡った美絽らは、「死者」たちと出会い、真理を知ります。そこは人を越えた「理解し難い」知性の場所でもあります。
 ですから、その後でもう一度島に戻って爆弾を処理するという下りは、あの世から戻ってきた者の冒険なのです。あるいは、「向こう側」を見て真理を悟ってしまった預言者が、人びとの謗りも構わず伝道する姿です。
 美絽は飛び降りからの復活という点でも一度死んでいるのですが、本土から島に戻るという意味でも、一度死んで蘇っているのです。

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