世の中に希望があった方がいいのか、ということを考えています。
ここで希望と言っているのは、夢とか将来の展望、理想や理念といったもので、正確に言えば、ミクロなレベルでの夢というよりそれを実現できるかもしれない社会的な空気のことです。総じて言えば、未来の肯定的な「可能性」です。
そんなものはあった方が良いに決まってるじゃないか、と言われるかもしれません。わたし自身、現代日本に生まれ育った人間として、夢や夢の実現可能性はあった方がなんとなく良いのではないか、という頭をしています。
逆に、希望のない社会というのはどういうものここで想定しているかというと、例えば、農民の子供に生まれて、多分自分も死ぬまで村の中で百姓をやるのだろう、と考えていてそれを疑わない世の中のようなものです。こういうと、いかにも陰鬱な感じがして、御免被りたい感じがします。
ただ、人類の歴史の99%、あるいは今現在でも非常に多くの人びとが、どちらかというと後者の世界に生きています。大方のレールというのが決まっていて、あとはその範囲で小さなことに笑ったり泣いたりしながら歳をとって死ぬ世界です。その世界が地獄というなら、人類はそのほとんどがひたすら地獄を生きているということでしょう。ちなみに、ケモノの類を眺めていても、そのほとんどは夢も希望もない世界に生きているように見えます(実際にどうなのかは分かりませんが)。
夢も希望もない世界というのは、生き物としてはむしろ基本的なスタンダードな世の中であって、別に異常な事態ではありません。
ですから、それが「地獄」に映るというのは、夢や希望がないことが地獄というより、「夢や希望がなければそれは地獄なってしまうような社会」あるいはそのような価値観、刷り込み自体に罠が潜んでいるように見えます。
夢や希望とは「可能性」のことです。まだ起きていないけれど、将来には起きるかもしれない、そういう可能性です。
ですからこれは、宝くじのようなものです。くじを買った時点では、まだ可能性です。その人びとの中で当選を手にするのは一握りの人だけです。他の人達は結局外れて、何も残りません。言うまでもなく、宝くじは買えば買うほど全体としては損をするものです。それなのに買う人がいるのは、夢を買っているのです。
これは信用取引にも似ていて、未来を担保に現在を売り買いしているわけです。
金融市場も似たようなものです。そう言うと、市場全体の価値が増減する可能性がある以上、単なるゼロサムゲームではない、という反論があるでしょうが、ここでのポイントはそこではありません。賭博の延長上にあるものが、企業を「所有」していて、それが経営とは別のロジックで動いている、ということ自体のことです。
こうした未来を担保にする取引というものが、人間社会から完全になくなることはないでしょう。貨幣の起源自体、(理想気体のような)物々交換の代替としてではなく、信用取引にあった、という論があるくらいです。わたしたちは常に未来を想像できますし、未来に賭けたくなってしまう生き物なのです。
問題は、そうした夢や希望の市場が世の隅々にまで行き渡り、その市場、あるいは賭場に参加しなければ人にあらず、のような枠組みが出来上がってしまっていることです。
参加者が多ければ賭場は盛り上がります。儲ける人間は大きく儲けることでしょう。しかし賭場には賭場のロジックがあって、その理に長じた者や、体力があり組織的に行動できるプロフェッショナルの圧倒的有利は揺らぎません。「一般人」の参加を促すために、そのアドバンテージはあの手この手で隠蔽され、見えにくくなっていますが、実際のところ、長期的に見て賭けに勝てるのは一握りの決まった人びとなのです。
繰り返しますが、この一握りの賭博人だけが丁半博打に賭けている限りは、それほどことは重大ではありません。なおかつ、こうした人びとに博打から足を洗わせるは、ほとんど不可能と言って良いでしょう。
ただ、このような人びとの果てしない賭博心のために、無数の人びとが賭場へと追い立てられているのが奇妙なのです。
夢や希望がなければそれは地獄である、という世界であれば、その世界は圧倒的大多数の人びとにとって地獄です。なぜなら、(わたしも含め)ほとんどの人間は夢も希望も実現できないからです。
「実現できなくてもいい、夢を持っていることが大切なんだ、それが未来への希望なんだ」というのは、賭博場のポスターか何かのキャッチコピーです。希望があったって勿論良いのですが、そこで誘導される賭場は大方決まっているのです。例えば、審判の日に報奨を得るために今日戦場で命を捨てる、という希望に輝く人を、今日の賭場は歓迎しないでしょう。そういう「希望」があったっておかしくないはずなのですが、合法なカジノと違法なカジノは線を引かれていて、その線は既に賭場にいる人々によって予め設定されているのです。
もっと言ってしまえば、民主主義と呼ばれているものにも、こういう危うさがあります。
もちろん民主主義は、ジジェクの言い方をすれば「最悪の中では最善のもの」でしかない訳で、そういう前提での民主制というものをわたし個人としては支持したいですが、今日ポスターに描かれてる民主主義とはそういうものではありません。それは言ってしまえば、予め賭場への入場料とか、ポーカーでのベットを徴収されている世界です。「あなたには権利がある、一票賭けて下さい、あなたの参加が政治を変えるんです。はい、賭けましたか? 賭けないでもいいんですか? 締め切りますよ? ハイ、負けです。でも権利は行使したんですから、あなたの意見はもう聞きましたよ。これで終了です」。言わば、言質をとる方便として、一応、「政治参加」のようなお題目が回覧されているのです。その上で、もうあなたの買った分のクジは終わりましたから、と、どこかで誰かが当選金を集めていくのです。
夢と希望の世界は、夢や希望の実現ではなく、夢や希望を抱くこと自体を要求しています。わたしたちは、クジを買わないといけないのです。クジなんて引きたくない、このまま百姓でもいい、と思っていても、クジを引くのは国民の「権利」なのです。「義務」ではありません。権利であり、なおかつその行使についてさんざん勧められた上で、クジは外れるのです。「おばあちゃんの家に行くかどうか、お前が決めなさい、お前がイヤなら行かなたっていいんだよ」というポストモダンの父です。
夢や希望を抱かなくてはいけない世界とは、圧倒的多数が夢や希望に敗れ、なぜだかわからないけれど自動的に敗者にされてしまう世界です。
やりたくもないのに無理やりグローブをつけさせられて、「がんばれ!」「やればできる!」とか散々応援された挙句、ボコボコにされて担架で運ばれていく世界です。
もちろん、担架は健闘を称える声が取り囲み、素晴らしいスポーツマンシップが賞賛されるのですが、そもそもがそんな話ではなかった筈なのです。
確かに、世の中には勝者と敗者が生まれる場合があります。時によっては敗北はそのまま死にもつながるでしょう。でも、わたしたちのほとんどは、十全にチケットを用意されて、健闘の末に敗れるわけではありません。そんなものは最初から決まっているのです。血と運命というものが線を引いいていて、時がくれば勝ったり負けたりするのです。夢とか希望とか、可能性みたいなものを一回与えられて、それを使って上で正々堂々と退場していく、そんなものは、より多くの参加者を賭場に引きずり込むための演出にすぎないのです。
負けということなら、そんな可能性を信じてしまったら、その時点で既に賭場のトラップに捕まっているのであって、負けが決まるのはそこなのです。
だからといって、自由というものが一切ない、と言っているのではありません。ただそれは「自由か死か」と問われて死を選ぶことでしか手にできない、そういう自由です。
自由というのはそういうものです。
夢とか希望とかから来るものではありません。
わたしが今頭に思い浮かべているのは、個人レベルでの夢とか希望というより、そのようなものを成り立たしめている社会の夢、社会の理想のようなものです。
わたしたちは常に、未来の可能性というものを想像できてしまうので、賭けという欲から完全に解放されることはありません。
しかし、そういう夢がどこから来ているのか、誰が本当に得しているのか、胴元はどこにいるのか、よくよく用心しないといけません。
別に陰謀論ではありません。得をしているのが人間とは限らないのです。
亡霊のようなもの、呪いのようなものが、わたしたちを行列させ、賭場へと駆り立てて行くことがあります。
しかしわたしたちが本当に賭けることができるものは一つだけで、それは常に既に取引の途中なのですから、夢や希望に惑わされてはいけないのです。