「宗教は人を幸せにする(ための)ものだ」というフレーズの嘘臭さについて触れましたが、考えてみると「人を幸せにする(ための)ものだ」という言い方は色々なものに使われていて、そのどれもが胡散臭いです。
例えば、音楽は何のために存在するのか、それは「人を幸せにする(ための)ものだ」。芸術全般について、こうした答えがあり得ます。
あるいは、そもそも人は何のために生きているのか、という問いに対して、「幸せになるためだ」という人もいるかもしれません(結論を先取りしてしまえば、この問いと幸せという奇妙な答えの関係が、この手のやり取りの本性に直結しています)。
この答えが出てくるのは、大抵は目的がはっきりしないものについて、その目的が問われた時です。「しゃもじは何のためにあるのか」と問われれば、「ご飯をよそうためだ」と答えるでしょう。「幸せになるためだ」と答える人はいません。
目的のはっきりしたものだとしても、その答えに対してさらに「それは何のため」と問い続ければ、最後にはよく分からなくなります。「ご飯をよそうのは何のため」「そのまた目的は何」と問い続ければ、最後は幸せとか何とか、大雑把で何を言っているのかよく分からない「目的」を示すしかなくなるでしょう。
逆に、目的がはっきりしなくても、幸せと関係ないものはあります。例えば「木は何のためにあるのか」と問われれば、植林と理解して「木材を採るため」と言うかもしれませんが、植物としての木そのものなら、「何のためも何も、最初からそこにある」のように言うでしかないでしょう。
後者で「何のためも何も」というのは、木は人が作ったものではないからです。
目的論というのは、人の意図に関わるものであり、自然界そのものに内在する訳ではありません。いわば間主観的・社会的な約束事です1。ですから、合目的に作られたものについては、とりあえずの一次的目的を答えることができますが、合目的的でなかったり、合目的的でも何度か「そのまた目的」を尋ねれば、いずれ人が作ったのではないものにぶつかって、答えは出なくなります。「何のためも何も」の領域、つまり「外野」です。
こうした混乱は、進化や生物界の秩序を説明する場面でも、しばしば見られます。目的とは、元来人の狭い社会関係のために作られた説明の仕方な訳ですが、わたしたちはその秩序を、それ以外の領域にも援用しようとしてしまいがちです。ただ、宗教や音楽に目的論が援用されることには、もう少し複雑な事情があります。
「木は何のためにあるのか」といった、明らかに目的論秩序の外部にあるものについて目的が問われた時には、「目的もヘッタクレもない」と答えられるのですが、問題は境目くらいにある微妙な領域です。
信仰や音楽というのは、正にこの境目にあるが故に、「幸せになるためだ」のような、訳の分からない「目的」が登場するのです。
境目というのは、人が作ったものとそうでないものの境目です。
常識的に考えれば、宗教も音楽も人の世のものです。発生論的(通時的)に考えるなら、確かにそれは「人の作ったもの」でしょう。
しかし象徴論理の構造に従うなら、必ずしも「人の作ったもの」ではありません。宗教は一般に人の起源を語るものですし、「人が作った」以前に「人が作られた」所以に触れます。
「そんな物語・説明の仕方こそ、正に人の作ったものじゃないか」というのは、まったくその通りなのですが、そうした語らいが自然界に張り付いた(「もの自体」)「客観的」ディスクールな訳ではありません。なぜなら、ここでの「客観性」自体が、すでに「人の作った」枠組みでしかないからです。ラカンが「大学の語らい」においてS1主体が抑圧される、というのは、こうした意味でしょう。「(科学的)客観性」とは、人の語らいから何かをマイナスして成り立っているものです。
話を宗教に戻せば、これは境目にあって、「人の作った」「人を作った」が相互に入れ子になる関係にあります。
音楽もまた、一面において「人の作った」ものではあるのですが、人に降りてくるものでもあり、おそらくは人が人たる起源において(あるいは人に先立って!)空から聞こえてくるものです。音楽は人以前に地上に降り注いでいます。人は多分、音楽に呼ばれて地上へと産み落とされたのです。
絵画が人を癒すのは、そこに「視覚に先立つ眼差し」があるからです。見る以前に見られている、そうした境位において考えられる眼差しがあるから、絵画は絵画として成り立ちます。その眼差しは、論理的に人に先立つものです。それは例えば、擬態を見る眼差しです。生物における擬態は、擬態を背負ったその当の生き物の視覚を対象とするものではありません。当人には擬態という自覚すらないでしょう。更に、当の生き物に視覚が備わっている必要すらありません。擬態は眼を欺くものですが、そこで欺かれる眼とは、見ることに先立つ眼差しです。
つまり「境目」というのは、単に人の世の周縁というだけでなく、その人の世そのものの成り立ち、「人の作った」と「人を作った」が入り組み合う領域、ということです。そうした領域において目的論的な問いが発せられる時、しばしば「幸せになるためだ」といった、訳の分からない答えが返ってくるのです。
本当のところ、宗教も音楽も、宗教や音楽の内部のロジックに従うなら、「人の作った」ものではありません。むしろ「人を作った」ものです。ですから、丁度「木の目的」を問われた時のように「何のためにもなにも、最初からそこにある」と言っても良いのです。ただ、木と違って、発生論的に「人の作った」要素があるため、目的を問いたくなってしまうのです。
「幸せになるためだ」といった「目的」は、人の世に空いた恐ろしい暗い穴を、慌てて塞ぐためのものです。恐怖にかられて、空いた穴をなかったことにすべく、急いで大急ぎで蓋をしようとしているのです。
その穴とは、人の世そのものの成り立ち、わたしたちの存在そのもの、あるいは「わたし」の存在を問うものです。「大学の語らい」が主体を抑圧するように、「客観的」語らいは、こうした起源について答えません。もちろん、起源を巡る様々な語らいは存在します。進化論でも何でも結構です。しかしこうした語らいは、語っている当人を語らいの中から弾いている限りにおいて、安全圏の高みから見下ろすものでしかありません。そしてこの高み自体が、既にフィクショナルであり、何かをマイナスすること、何かを見なかったことすることで成り立っているものです。
その穴にただ蓋をするのではなく、素直に向き合おうとするなら、そこで問われるのは対象の目的ではなく、問うている者そのものの目的です。そこは、「人の作った」が「人を作った」にヌルンと裏表が入れ替わる場所です。問う者が問われる場所です。穴に向かうには、問うのではなく問われる者として、穴の前に立つしかありません。「お前は誰だ」「お前はどこから来たのだ」「お前はなぜここにいるのか」。
宗教が「人を幸せにする」などと言うなら、むしろ宗教が幸せになるために人があるのだ、と言う方が正しいです。もっと言ってしまえば、主が望まれたから人はあるのだ、ということです。それは全面的に主の都合であって、わたしたちの都合ではありません。望まれたくらいなので、多分主が幸せになるために作ったのではないかと思いますが、それもどうなのかは分かりません。わたしたちから見れば、まったくの不条理でしかありません。幸せもヘッタクレもありません。こっちの事情などお構いなしです。
様々な宗教に見られる起源の語らいというのは、絵画が眼差しの機能をもって人を癒すように、人を安らがせるものです。安らがないこともあります。絵にだって好き好きがあります。ですから、この具体的な起源の物語それぞれについては、特段重要という訳ではありません。絵の好みと一緒です。大事なのは、絵があるということです。絵というものが成り立つこと自体です。具体的内容ではなく、具体性という暴力自体が重要です。それが分からなければ、起源の語らいなど、滑稽な子供だましに過ぎません。上手く行けば、絵がお好みにあって、子供だましにだまされる幸せな子供になれるでしょうが、それは一番重要なことではありません。
空から音楽が降ってくる時、わたしたちはここに呼び出されました。もっと言えば、その時降ってきた音楽がわたしたちです。音楽は音楽の事情でわたしたちを呼び出し、わたしたちはただ歌ったり踊ったりしているのです。音楽がなぜわたしを躍らせるのか、それは知らない。
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