「宗教は人を幸せにする(ための)ものだ」というほど、滑稽で愚かな言葉もない。
そんな調子だから、訳の分からないスピリチュアルやらカルトにやられるのだ。
それくらいなら「人を苦しませるためのものだ」の方がまだマシだ。
実際、信仰のお陰で色々と苦しみを被ることは多いだろう。
しかしこれも正しくはなく、苦しみの中に信仰がある、という方がいくらか良い。
信仰の中に苦しみがあるのではなく、苦しみの中に信仰がある。
苦しみというのは、信仰があろうがなかろうがある時にはある。当たり前だ。苦しい時は苦しい。
それは人の中にあるもので、信仰がそのまた中にあるのだから、信仰は内側に最初からあるものを見つけるだけだ。
苦しい時に、その苦しみから逃れるために、宗教へ行く、というのではない。
苦しみや不幸の外ではなく、中にあるのだ。
苦しい有り様、それが実は信仰の一様式であり、その苦しみの限りにおいて、実は既に信仰の内側にいる、という気付きがなければならない。
それは「幸せになる」などというのとは真逆の方向だ。
何かになるとか、何かを得るといった話は、どれもこれも浅薄でしかない。
有り様を見つけなければならない。
存在を変えなければ何も変わらないが、既にただ存在しているので、それを見つけるしかない。
存在しているのは苦しいことだ。