信仰について、気になる文章を見かけました。
当然だれしもひとりでは生きることはできない。私自身も本当にひとりで生きていたいのかというと、それは嘘だと思う。そうであるならば増田に文章を書くこと自体が矛盾した行為だ。ただ単に、人を信頼して交流する力が衰弱しているだけなのだと思う。そしてそう思うからこそ、わたしはキリスト教者、もしくは他の宗教者に憧れを感じる。
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そんなに言うのならキリスト教徒になればいいのではないのかとお思いかもしれないが、そうはいかない。
なぜなら自分の精神的な支柱は無神論にあるからである。高校生の頃、カミュ『ペスト』に触れて、神への信仰は災害や疫病などの不条理に対して無力であるどころかそれを恵みと呼ぶような危険性のあることに気づいたからである。いまもってしてこの本の影響力は大きく、時折目を通しては線を引くことを繰り返している。
私は神を信じたくない。いかなる宗教にも属したくない。それと同時に神の名のもとに作り出される教会という共同体に憧れを抱く。そうして自分が人との交流を本心から楽しむ社交的な人間へ変わることを願っている。むしのいい願いである。むしのいい願いはまず叶えられることはない。
『地獄とは神の不在なり』とはよく言ったもので、私はたしかにキリスト教者にとって地獄にいるのだろう。
かって私は信仰心の薄い現代の日本人でいることに誇りを持っていた。しかし、今は苦しんでいる。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。それならそう言ってくれるだけでもいい。誰か、私を信仰心がないことの苦しさを取り除く方法を教えてほしい。
その苦しみは、信仰が「ない」こと自体ではなく、信仰がないと「思っている」こと、つまり「何もしなければデフォルト無信仰」だと考えていることから来るものでしょう。
信仰とは、選ぶものではなく、既に選ばれていることを発見することです。
何かの「宗教団体」に属するとか、そんな話では全然ありません。そういう人がいるかもしれませんが、そんなものは信仰を陳列台に並べて外から眺める態度か、あるいはそうした態度を逆輸入的に内面化してしまった宗教ゴッコ好きの遊びに過ぎません。
この文章を書かれた方は、その苦しみ自体において、既に信仰の内にあるのではないかと思います。彼あるいは彼女は、それを「信仰のない」苦しみだと思っていますが、実は信仰の苦しみでもあります。
違ったら申し訳ありませんが、わたしはこの人の発想が割りと理解できるつもりです。なぜなら、わたし自身がこれにかなり近い考え方、苦しみ方をしてきたからです。「無信仰であることが心の支え」「信じたくない」といったところは、自分のことを書かれているかのようにすら感じました。
何度か書いていますが、わたしは元々、「完全な無神論者」になろうとしていました。そういう(小賢しい発想をする)人は、ある種の環境にはそれなりにいるのではないかと思います。ここで面白いのは、「なろうとしている」限りにおいて、既にこの時点で、「実のところ自分は完全な無神論者ではないのではないか」という疑念がある、ということです。本人はこの疑念に自覚的でなかったり、気づいていても「なろうとしている」その先に目を奪われているのですが、実は発見すべきは背後にある疑念の方で、先にある「完全な無神論者」という像はルアーに過ぎません。
この点を考えなければ、信仰について何も知ることは出来ません。池上彰あたりがツルンと教科書的に解説しているのを眺めて、「世の中には変わった考えをする人がいるんだなぁ」などと、一生見ることもない南国の鳥のドキュメンタリーか何かを見た気になるだけです。
この文章を書かれた方であれば、おそらく、上のような部分がある程度分かったとしても、信仰の具体的諸形態、例えば礼拝のやり方やら何やら、そうしたことが気に食わないのではないか、と想像します。わたしも気に食いません。
気に食わないのになぜやるかと言えば、極論すれば、気に食わないからです。
主はまったく不条理で、わたしたちには理解できないことをされる御方です。
これは人生の不条理と表裏一体で、このような無茶苦茶を主以外の何者かに押し付けられているのだとしたら、わたしは決して承服できないでしょう。
信仰の具体的諸形態とは、正にその(根拠なき)具体性自体に価値があるのであり、合理的説明を加えようとするものがあれば(例えば、斎戒は体に良い、など)、それは単に自分の信仰心の弱さをライフハック的小知恵で慰めようとしているに過ぎませんし、まったく耳を貸す必要はありません。
小知恵で無理やり自分を納得させるのも、本人がそうしたいなら止めませんが、それくらいならやりたくない義務など果たさなければ良いと思います。
例えばこの人が(まかり間違って)ムスリムまたはムスリマになりたいと思って、でもお酒がやめられないなら、お酒を飲めばいいでしょう。
敬虔なムスリム同胞の皆様に殴られそうですが、わたしは本気でそう思っています。
宗教上の「義務」だとか、シキタリ的なお約束ごとが、何に対しての「義務」なのか、それを考えなければ、ただの道徳や行儀の類と何の違いもなくなります。それくらいなら、実際に「義務」に反してみて、そこで生じてくるものが何なのか、じっくり向き合ってみる方がいくらかマシだと思います。
例によって話がズレまくりましたが、もしこの文章を書かれた方がここを訪れて下さったら、試しに以下あたりに目を通して頂けると、まったく勝手ながらちょっと嬉しいです。
その結果、この人がキリスト教徒になったとしても、わたし個人としては結構嬉しいです。
どのみち、あなたたちの主も、犯罪者の主も、我らの主なわけですから。
選ばないことでは無宗教にはなれない
もう選ばれちゃっていることを発見する
小っさなムスリムに話しかける
なぜという問いに答えられないところから信仰が始まるのではないか