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カメラと畜生の倫理

 ニューヨークポストの1面に、喧嘩で線路に突き落とされた男が、地下鉄に轢かれる一瞬前の姿が掲載されたそうです。
 NY地下鉄で死ぬ直前の男の写真が撮られたとき、他の乗客は何をしていたか

カメラなど出している暇があったら、なぜこの乗客を救出しなかったのか、という非難の声が一斉に上がった。

近くにいた人の一部は電車が近づいてくるのを見て逃げてしまったこと、そして人命を救おうとしなかったばかりか、スマートフォンなどでこの様子を写真やビデオに収めていた人々もいたという。

 当のカメラマンだけでなく、周りの人々も携帯やスマートフォンで写真を撮っていて、この男を助けようとしなかったといいます。
 似たような事例は日本でも見られますし、世界中どこででもあり得るし、これからも増えていくでしょう。

 このことを道徳的に非難するのは誠に尤もですし、個人的にも同意ですが、それよりも、カメラというものの(道徳性という意味ではない)倫理的位置について考えます。
 カメラには状況から遊離させる働きがあります。
 カメラを手にして写真を撮っている本人は、当然ながらその場に居合わせている訳ですが、同時に、その写真の出来上がり、昔であれば現像し写真の仕上がる時と場所、そうした時間差のある場所に立っています。その場にいると同時に、そこから離れた別のコンテクストにも身を置いている、ということです。
 別のコンテクストにも身を委ねている、ということでは、電車の中で小説を読んでいてもそうなのですが、カメラには「紛れも無いこの場」を別のコンテクストに接続する、という機能があります。こうした働きはカメラの専売特許ではなく、現代であればスマートフォンでSNSに逐次ルポルタージュを送る、といった行為も近縁的でしょう。
 この関係は、一方向にだけ流れすべてが単一的で、熱力学第二法則的な時間(死の欲動)と、円環的でホメオスタシス的な時間(快楽原則)の関係を彷彿させます。つまり、状況参加的で不可逆な一回性に眼を灼かれないために、執拗なるホメオスタシスの揺籠によって身を守る、ということです。
 こうした防衛はわたしたちが常に行なっていることで、行わなければならないことです。わたしたちが「名」によって社会・象徴経済に接続されているのも、そうした迂回路ですし、その限りにおいて「人間」である、とも言えます。分かりやすいけれど不正確でミスリーディングな言い方をするなら、役割によって社会に接続されていることもそうですが、それ以前に、「名」によって呼びかけられこの世界に引きずり出されている、という、ヒトの有り様自体が、サンボリックです。
 つまり、こうした「防衛」は「人間であること」とほとんど表裏一体な訳ですが、一方で常に、不可逆的で数えられない時はホメオスタシスを侵食し、最後にはヒトを死に至らしめます。だからこそ、その事実からの防衛としての象徴化がある、とも言えます。最終的には絶対に打ち勝つことのできないこの不可逆性を前に、少しでも防壁を安寧に保つためには、「越えてはいけない一線」があります。その一線を越えて防衛を働かせようとすれば、つまり円環的揺籠の領土を広げようとすれば、死の逆流を招き、結果として円環を自ら瓦解させてしまうことになるのです。
 この一線というものが、(社会内的道徳とは異なる意味での)倫理です。
 ですから、倫理とはある意味「動物的」なものです。「畜生道に堕ちる」などと言いますが、畜生は極めて倫理的です。彼らには倫理しかないが故に、倫理を言う必要がない、ということです。
 この倫理は、暴力的でもあります。円環内のロジックの切れる場所でこそ発生する訳ですから、「話の通じない」ものです。倫理とは、「ここから先は話が通じ」なくなるものです。そこで話を通そうとすれば、話の通じた世界すらも瓦解に巻き込むものでです。

 話を戻すと、カメラの働き(快楽)は、極めて「人間的」でサンボリックなものですが、同時にまた、カメラの快楽を保つための倫理というものがあります。
 ある写真家は、歌舞伎町などでヤクザのスナップ写真を撮り続けていて、しかも望遠レンズなどを使わず、ヤクザの鼻先まで飛び込んでいきなり写真を撮っているそうです。当然ながら、時にトラブルになります。殴られたのも一度や二度ではないようです。それでもなお、彼はヤクザの前に飛び込む。こうした覚悟が、倫理性です。
 死を目前にした人にスマートフォンを向けるような極端な例ばかりでなく、もっと卑近なところでも、不可逆性から引き篭もろうとする防衛的なカメラを目にします。こうした振る舞いを傍から見ると、たとえ自身がカメラやスマートフォンを愛用している人間であっても、言い知れぬ不快感を感じる場合が多いでしょう。それは彼らが、「畜生の倫理」ギリギリで低空飛行しているからです。
 畜生の側に立つならば、必要なのはヤクザです。つまり、カメラを向けられたら殴ったらいいのです。
 「暴力」に訴えれば、それは人間の道徳には悖るのかもしれませんが、この時、殴る人は畜生の倫理の側にいますから、人間のことなど関係ありません。実際は人間なので、後で警察に捕まるかもしれませんが、殴っている時は畜生代表で良いのです。畜生は警察なんて知りません。警察どころか猟友会の人に睨まれただけでも畜生は勝てませんが、勝てないことを知らなければ、恐怖も迷いもありません。
 畜生の牙にかからないのは、十分に畜生である人間だけです。

 わたし自身、カメラという機械がとても好きなこともあり、カメラと畜生倫理についてはよく考えます。
 カメラを持つ時、十分に倫理的であるには、人間をやめなければいけません。
 畜生はカメラなど持たないのですが、もし畜生がカメラを持ったらどう振る舞うのか、というナゾナゾに向き合うことが、カメラを単なる玩具以上のものにする唯一の道のようにも思います。

kharuuf

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kharuuf
Tags: 倫理写真

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