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ヤケッパチ

 以前に「死んだら死んだでそれはそれでいい、と思えなければ、自由になどなれるわけがない」ということを書きました。
 このことは実に両義的で、例のよって「(主意主義的という意味で)ウヨク的」なお話です。エロティックと言ってもいいでしょう。
 両義的というのは、「死んだら死んだでいい」というある種の達観というかヤケッパチというか諦念というものが、生に意味を与える、という一方で、「死んだら死んだでいい」と思えば、「本当に」戦えてしまうからです。
 「尖閣問題で大騒ぎする中国人の「本音」は」という李小牧氏のコラムの中で、「もし戦争になって勝ったら釣魚島を取り返すことができる。負けたっていい。なぜならそれをきっかけに『新中国』が誕生するからだ!」という中国版Twitter上の書き込みが取り上げられていますが、これが「死んだら死んだでいい」の一つの面です。勝つか負けるかなら、誰でも当然勝ちたいわけですが、「負けたら負けたでいい」くらいの気持ちが現れた時、人は本当に戦えてしまう、ということです。逆に言えば「負けはなんとしても避けたい」と思っているうちは、そうそう命をかけられるものではありません。
 つまり、「死んだら死んだでいい」というヤケッパチは、「本当に」殺し合いになってしまう危険な面がある一方、この気持ちを通過する、思い知ることで、はじめて生に意味が与えられる、という、二つの側面がある、ということです。
 もしも殺し合いがこの世で一番悪いことなら、このヤケッパチはなんとしても防がなければいけないものでしょう。実際、この世で一番かどうかはともかく、誰がどう考えても殺し合いはできるだけ避けたいものです。ですから、軽々しくヤケッパチになる(?)のは、当然ながら避けるべき行いです。
 ですが一方で、ヤケッパチこそがわたしたちを「本当に」活かすという一面があり、実際にヤケッパチな行動に出るかどうかは別として(もちろん出ない方がいい)、ヤケッパチ的な精神、ヤケッパチ的な心の位置取りのようなものを、知っておくべきです。この心を、実際にヤケッパチな行動に出ないまま知る、ということが、信仰の重要な一面でもあります。
 しかしながら、ヤケッパチはヤケッパチですから、「行動に出ないまま」というのは時に微妙なもので、「行動にでないまま」の予定だったものが、実行に移されてしまう、という場合があります。信仰もしかり、ナショナリズムしかり、武士道もまたしかりです。上手い具合に寸止めできれば良いのですが、時々本当にヤケッパチに殺し合いになることがあります。
 わたし個人としては、両方天秤にかけて、たとえ時々殺し合いになっても、ヤケッパチ的な心を知るべきだと考えています。殺し合いは非常によろしくないことですが、この世で一番悪いことではないですし、もっと最悪なことがこの世には色々あるからです。
 この考えについては、別段賛同を得ようとも思っていません。逆の意見もよく理解できますし、それ以前に、ここでどちらかを選ぶかは、実のところあまり重要ではないからです。というのも、ここでわたしたちがどう言おうと、ある種の人々はどの道ヤケッパチだからです。
 どうしてヤケッパチなのかと言えば、貧乏だからとか、社会に不満があるからとか、彼女が出来ないからとか、理由は色々です。また、ヤケッパチとはいっても、ヤケッパチになったほとんどの人々は、本当は死ぬ覚悟まで出来ているわけではありません。さしあたって、目の届く大変狭い範囲を眺めて、勝手にヤケッパチになっているだけです。実際に生きるか死ぬか、という場面になれば、泣き叫んで見苦しい死に方をする人の方が多いでしょう。
 ですが、ほとんどの人間は、それほど広い範囲をよくよく吟味してから物事を決めたりしませんし、結構簡単にヤケッパチになってしまうのです。こういう人たちに対して「もっと広い視野でものを考えよう」と言うのは、まことに尤もですが、ほとんど効果はないでしょう。どうあがいたところで、社会の一定数はヤケッパチになります。それが一定数を越えると、世の中全体がヤケッパチになって、戦争でも何でも出来てしまうのです。
 別段サヨクの悪口を言いたいわけではないのですが、いわゆるサヨク的(あくまで「いわゆる」)言説を眺めていると、このヤケッパチを軽く見ている、と感じることがよくあります。言っていることは至極筋が通っているし、「実際にそうなったらいいなぁ」とわたし自身も思うのですが、ヤケッパチな人々には決して届きません。彼らのヤケッパチがこうした言説で覆されることはほぼないですし、またヤケッパチな人々がこの世から消えてなくなることもありません。
 世の中には常にヤケッパチな人々がいますし、わたしたちの心の中にもヤケッパチがありますし、むしろあるべきなのです。ただ、その割合が多くなりすぎるのは本当にマズイですし、言わば「制御されたヤケッパチ」が必要です。我田引水するなら、信仰などはその手綱の好例ですが、前述のように失敗することもよくあります。いずれにせよ、ヤケッパチを覆すのではなく、ヤケッパチがあることを前提に、それをある程度のところで止める、という言葉が必要です。
 実際に機能する言葉というのは、このヤケッパチを織り込んだものです。
 ヤケッパチの撲滅を目指す、あるいはそれを前提にしたような言説は、言葉の上で合理的であったとしても、その合理性が全然通用しなくなってしまったヤケッパチたちには意味をなしませんし、この人たち、この心は必ずあるのです。
 少なくともわたしの心に届くのは、ヤケッパチを織り込んだ上で語られる、静かで筋の通らない話です。

kharuuf

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