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身体論の迷宮と「正しい歩き方などない」

 武術や身体論・身体操作理論というのは、どこか「宗教的」で、時に迷宮となることがあります。
 そもそも武術・身体論と「宗教」は親和的です。オカルトの類も連なるでしょう。偶然かも知れませんが、知っている日本人ムスリムには武術・武道を学ぶ人が結構見られますし、わたし自身もその末席を汚す者です。
 なぜ「スポーツ」ではなく、武術・身体論なのかと言えば、アプローチの仕方として、分析的というより総合的で、部分の正しさから全体像の構築を試みるのではなく、何か「根本的なもの」を掴もうとするものだからでしょう。言わば、部分に分解してしまうと指の間からこぼれ落ちてしまうエッセンスに対して、何とか齧りつこうとする志向性が、これらの背後にあります。
 それはそれでまったく間違ったことではなく、確かにそういうものはあります。不可能なものといかに向き合うか、という命題を巡る旅、とも言えるでしょう。
 ですが同時に、時に暴走してとんでもない迷宮に彷徨い込むことがある、というのも、これらに共通しています。
 なぜそんなことになるのかと言えば、これらに向かう志向性を駆動しているのは、根本的に「はっきり分からないが、現象の背後に確かな一なる力がある」という信念だからです。この信念自体も別に間違ってはいませんが、この「見えないもの」をイマジネールに解釈し、つまり実体的に理解し、あたかも「見えるもの」「手触りあるもの」のように扱い始めると、暴走への一歩を歩み出すことになります。
 背後にある力を想定することで、事態をよく理解できるようにはなるかもしれませんが、これはあくまで想定であり、実体として一つに同定できるかどうかは別問題です。これだけなら、別段分析的な近代科学的手法でも同じことが言えますが、武術ー身体論ー宗教の系が扱おうとしているのは、そのようなアプローチで回収し切れない部分な訳ですから、背後にあるものは元より単純な分析的力には還元できません。還元できないから想定物とし、その「周りを巡る」のですが、時々、直接中心に入っていってあまつさえ「これが中心だ!」と掴んで帰ってくる人がいます。掴んで帰ってきたものは、大抵は偶像とか鳩のフンとかコーラの空き瓶のようなものですから、そこから先は目も当てられません。
 「不可能なものといかに向き合うか、という命題を巡る旅」は、旅であることが重要なのです。ヒマラヤの方の土着信仰では、五体投地しながら聖地の周りを回る修行がある、というような話を聞いたことがありますが、これも「周りを回る」ことが大事なのでしょう。聖地の中にズカズカ入っていって、おみくじ引いて帰ってくる、というのは話が違います。掴んでしまったものは、既に影です。

 身体論の良いところは、なにせ相手が身体なので、その身体自体は、神様やUFOと違って手触りがあります。そしてアプローチするには、ただ座して本を読んだりしているだけでなく、身体を動かす必要があります。身体を動かすと、かなり正気に帰ります。頭がおかしくなりそうになったら、散歩したり空手をやると良いです。
 しかし一方で、なまじ相手が一つの身体であるだけに、「一つであるはずだ」という確信を相対化するのが困難です。
 実際、所詮手二本足二本の人間なのですから、武術・身体論に諸流派あれど、根本は通底している筈だ、というのが常識的理解でしょう。また、確かに多くの理論で共通する局面は見られます。
 身体論の間で、矛盾が見られた場合には、どう理解したら良いのでしょう。一つである筈の身体の使い方を巡って、少なくとも表面的には、矛盾した内容が主張されている、という場合です。
 この場合、考えられるのは大雑把に以下の三つです。

①どちらかが間違っている
②一見矛盾して見えるが、より深い段階では一つのことを言っている
③両方間違っている

 宗派主義というか流派主義的な考えでは、しばしば①のような主張が為されます。「ウチが正しい、アイツらは間違ってる!」という訳です。
 一般に武術・武道の修行はそう簡単なものではありませんから、これくらいの勢いをもってことにあたるのは大切でしょうし、少なくとも一定期間、たとえ間違っていても信じて邁進する、というのは意義があると思います。しかし究極的には、多くの場合、この発想だけではナイーヴに過ぎます。
 より公平かつ冷静に考えるなら、②というのは合理的判断です。今の自分の理解では矛盾して見えるが、それは理解が足りないからで、より深い段階に達すれば一つであることが分かる、という訳です。実際、そういう場合も多々あるでしょう。
 ですが、この発想は正しく冷静であると同時に、上で触れた暴走の一歩手前でもあります。確かに矛盾が止揚されるケースは多くの局面で見られる筈ですが、止揚の果てに「唯一なるもの」に直裁的に到達できるかというと、話は別です。結局、最後は「周りを回る」のだ、という諦念がないと、トンデモ突入です。
 こうしたツッコミ作用として有効なのが、③という視点です。身も蓋もありませんが、本当にそういう場合もあるでしょう。まったく間違っている、という訳ではないにせよ、どちらの理論にも不完全性があり、その結果、二つの不完全な主張が為されている、というのは、まったくあり得る話です。ただ、この場合も、不完全性を補完すれば「唯一なるもの」に到達できる、と考えてしまっては、元の木阿弥です。すべて不完全だからこそ、「周りを回る」ことができるのです。

 最近わたしが非常に気に入っている論者の一人に、木寺英史先生という方がいらっしゃいます。常歩理論の提唱者の一人である剣道専門家で、武術的に非常に平明で分かりやすい理論・応用を唱えていらっしゃいます。
 その仔細については、ここは触れるに適切な場ではありません。注目したいのは、「正しい歩き方などない」という木寺先生の言葉です。
 一般に、身体論的な文脈でよく用いられるのは「現代人は○○する、しかしこれは実は間違っている、本当の歩き方(立ち方・戦い方)は○○だ!(宮本武蔵もそう言っている!中国のホゲホゲ老師もそう言っている!・・)」といった語らいです。つまり、表面に間違った仮構があり、その背後に「本当の身体の使い方(立ち方・歩き方・戦い方、あるいは神様、UFO、生きている意味・・)」がある、という発想です。
 何度も言う通り、そう信じて歩くことは重要です。しかしズカズカ歩いて本殿に上がると神様とご対面になると思ったら、それは間違いです。
 こうした中、木寺先生の発する「正しい歩き方などない」という言葉は、大変重いです。
 これは「どんな歩き方でもいいよ」という、ナイーヴな相対主義ではありません。「本当の歩き方(立ち方・戦い方)」を求めるに、氏ほど真剣な方もそういないくらいなのですから。
 「(ある目的に鑑みて)より合理的」な操法、というのは存在します。これを探求することは大切です。しかしその果てに「唯一の操法」があるかというと、それは違う、ということです。

 この辺の視野狭窄にツッコミを入れるには、武術と対置する意味での現代格闘技やスポーツ競技はとても有用です。これらは競技化され、武術的には「形骸化」した面もあるかもしれませんが、測定可能である、ということが重要です。そこで測定されるものがすべてではないにせよ、思い込みを中和する作用はあります。
 格闘技者には、技が荒く汚いけれど、力が強くて頑丈、という人もいます。それでも勝てば良いのです。その力に抗することができないなら、武術もヘッタクレもないです。もちろん、そういうやり方をすべての人ができる訳ではないですし、年をとったら弱くなるかもしれません。しかし、伝統武術を学んでいて、若い時も年をとっても変わらず弱い、という人は掃いて捨てるほどいますし、大体、五十、六十になって殴り合いをしている方がどうかしています。別に弱くなったっていいじゃないですか。
 ある理論は大変優れていて、それを極めた先には達人がいるのかもしれません。しかし、その理論がいかに正しかったとしても、誰もが達人になれる訳ではありませんし、ほとんどの人はうだつがあがらないのです。トーナメントに出れば半分は一回戦で負けます。一万人に一人の達人を生み出す理論も素晴らしいでしょうが、9999人がガムシャラに汗を流し、真の操法を習得する訳ではないにせよ、昨日の自分よりは一歩か二歩は強くなり、多少の自信を得て明日の仕事に向かう、そういう社会体育はもっと意義深いと思います。
 その9999人で話を終わらせないところが、上で触れている系の面白いところではありますが、これには常に、9999人のツッコミを入れておく必要があります。

 強引に我田引水するなら、わたしの理解するところのイスラームも、「周りを回る」ものです。本来的にラーイラーハイッラッラーとはそういうことだと、わたしは考えています。
 おみくじを引いて吉だの凶だの言っているムスリムが沢山いますし、しかも彼らの掲げる紙切れを見てそれをイスラームだと考えている非ムスリムも大量にいる訳ですが。

kharuuf

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