映画『009 RE:CYBORG』を観てきました。
結論から言うと、わたしとしてはまったく面白くありませんでした。ただ、これは単にわたしがアニメについてもSFについても格別ファンという訳ではなく、とりわけ年々SF的細工が嫌いになっているだけでしょう。部分部分の映像については美しいものもありましたし、ネタ的にオールドファンには嬉しい要素もあるでしょう。
ですから、映画そのものについては特にどうこう言うつもりはないですし、好きな人は好きでしょうから、是非楽しんできて頂きたいのですが、気になるのは物語の中で使われている小細工です。
神山健治監督は、なんとなく哲学臭く思わせぶりな細工を匂わせて視聴者を惹きつける作家で、『攻殻機動隊 S.A.C.』では、その手腕が冴えていたと思うのですが、当然ながら、これらは単なるエンターテイメントのための仕掛けであって、それ以上でも以下でもありません。
この思わせぶりなところを買って、『ユリイカ』が特集を組み、どこぞの学者や作家がもっともらしい解釈を述べたりする訳ですが、これもエンターテイメントの一環であり、単なる商売です。
実際、これらの論の中には、読んでいてとても面白く、楽しく暇が潰せるものも多いですから、大変結構なことです。
ただ、大学1年生などがこの手の話を真に受けて、何がしかの価値を見出してしまったりすると、その後の人生を狂わせますから、気をつけた方が良いかと思いますが。
大人気なくイラッとくるのは、この映画の中での「神」についての語らいです。
「神がいるならなぜこんな酷いことを」とか「邪悪な介入者としての神」とか、あるいは脳の中の神とか、そいういった概念はこの手の小細工の中でよく使われる訳ですが、よく使われるということは、そうした概念が通念上広く行き渡っているということでしょう。当然ながら、これは単なる道具立てで、それ以上のものではありません。
一緒に映画に見た人物は、「『キタコレ』って思った」「こんなの本気で取るヤツはいない」と高みから眺めていましたが、わたしは非常に了見が狭いので、こういう話を本気に取る人間が世の中には多少なりとも存在するのでは、と気になって仕方がないのです。
だからといって、破廉恥な道具立てを使わないでくれ、とも言えませんし、こうした道具立てが娯楽として上手く機能していること自体は、結構なことです。
ただ、消費者におもねると、結局こういう俗っぽい手段を選ばざるを得ない、ということに、辟易はします。
一言で言えば「幼稚」です。
もうそれに尽きるし、こういう幼稚さを前にすると、もう何もかも投げ出したいような気分になります。
ちなみに、わたしは子供の頃に「サイボーグ009」の原作を読んでいて、そういう意味ではノスタルジーを掻き立てられました。確か従兄弟がボロボロの漫画本を持っていて、遊びに行った先で読んだのです。
映画のエンディング前、002が成層圏まで飛んでくる場面は、原作第一部のラストへのオマージュでしょう。あそこで一旦終了する原作は、大変美しかったと記憶しています。