先日古い友人と会い、久々に長々とお喋りしてきたのですが、その時話の流れでふと語ってしまったことを、メモしておきます。例によって脈絡なく話題が飛びますが、ご容赦下さい。
誰でも何事かを成し遂げたい、この世に何かを残したい、という気持ちがあります。
これは至って普通のことで、前向きで大変結構なことではあります。少なくとも世の中的には良いことでしょう。
しかし同時に、これは邪念だとわたしは考えています。
「わたしの人生は何であったのか」と振り返るには、色々な視点がありますが、一つには「人々の間におけるわたしについての記憶」があるでしょう。これはアフマド・アル=イシーリー氏が取り上げていたものです。そして、この記憶や思い出を「善きもの」としようとすれば、世の中に対して「善く」振る舞うということにもなり、結構なことではあります。
しかし善く振舞おうが記憶に残ろうが、覚えているその人達も、百年経てば誰も生きていないでしょう。ほとんどの人のことは、百年後には誰も覚えておらず、名も聞いたこともなく、取り立てて記録すら残っていないことでしょう。役所のデータでも掘り起こせば、生年月日くらいは出てくるかもしれませんが、そんなものは既に死んだ情報ですし、そのデータすら二百年三百年経てば残るかどうか怪しいものです。
偉業を成し遂げたり、大著を上梓したり世の中的な注目を浴びたとしても、ほとんどの場合は、それほど「残る」ものでもありません。それより圧倒的に多くの人々は、何事も成し遂げず、ただ去りゆくのみです。
イスラームでは人が亡くなった時のおくやみの言葉としてالبقاء اللهアルバカーゥ・ッラー(残る=永久なるものはアッラー)と言いますが、「残る」のは主のみであり、その主がいかなる形で「残る」のかをわたしたちは知らないし、イマジネールな形で像を描くこともできません(できても、その像には意味がない)。
わたしは、二百年前に東北の田舎でコレラで死んだ名も知れぬ水呑み百姓の生にも、わたし自身の生にも、オバマ大統領の生にも、全く同等の価値がある、と信じています。
何がどう同等なのか、と言われると、何も示せるものはありません。ただ信じているだけです。
正確に言えば、わたしが信じているのは、これらを全く等価にしてしまう視点そのものです。つまり我らが主です。
世の中的に考えてこれほど比べようもなく異なるものを、全く等価にしてしまう視点というのは、わたしには理解できませんし、人間には理解できないでしょう。そんなものはこの世にはありません。ですから、この一点は不可能で不条理な点であり、ただ信をおくのみです。
これらの生が全く等価な訳ですから、何事かを成し遂げるとか何かを残すといったことは、確かに世の中的に立派な一面があるものの、より大きな視点から見れば些事であって、虚しいことです(そもそもそんなに残りもしない)。
正確に言えば、そのより大きな視点からの価値において、「成し遂げた何事か」が寄与するところがあれば、それは意味のあることでしょう。しかし、この視点というのは不可能な地点に宿るものですから、それが「いかなる形で」意味を為すに至るのか、その過程をわたしたちは知ることがありません。少なくとも、世の中的な意味での貢献だの名誉だのといったこととは関係ありません。
もし何事かを為すことで、二百年前の水呑み百姓より一分でもマシな生をおくれていると考えるなら、これは驕りであり、信をいくばくか損なうものです。
最後の最後のところには、この生の不条理なる絶対的等価性があるのだ、という覚悟を持っていないといけません。
この等価性というのは、名も無きものを救う一面がある一方、極めて不条理で残酷で、強い信がなければ心を虚しくしかねないものです。何をやっても結局は残らない、何の値打ちもない、つまり「頑張っても報われない」からです。
正確に言えば「報われる」ことはあります。むしろ、何からも報われないものに対して、報いるのは、その視点からにおいてのみです。ただこの報いられ方というのは、まったく想像不可能な形によるので、世の中的な報いられ方にはなりません。
「頑張っても報われない」一方で、「頑張らなくても報われる」ことがあります。これが絶対的な等価性です。
もちろん、こんな視点以前に、世の中では報われることや報われないことが色々あり、何事かを為して評価されるなりといったこともあるでしょう。そしてわたしたちの人生のほとんどは、こうした世の中的なことに費やされるし、それで99%大丈夫です。ですから、ここでお話しているのは残りの1%のことです。
ただ、この最後の1%は、そこで人生全体を虚しくしてしまいかねない一点ですので、どこかで覚えていないといけません。
イスラームで主の御名を唱念することをذكرズィクルと言いますが、この言葉は語源的に「思い出す、述べる」という意味です。「思い出す」ことと「述べる」ことが一つの概念となっているのが非常に興味深いです。「唱える」のは「思い出す」ことです。
「思い出す」という以上、新たに何かを作り出す訳ではなく、元々知っているけれど忘れていることを「思い出す」のです。誰でも元々知っている筈なのに、忘れているのです。
最後の1%を忘れない、覚えておく、というのも、思い出すことです。
なぜ思い出すのかといえば、忘れているからです。
「忘れる」という概念はシャイターン(サタン、悪魔)と結びついており、クルアーンにはシャイターンが「忘れさせる」という語りが何度か見られます。つまり「思い出す」「忘れる(忘れさせる)」が対概念となっているのですが、重要なことは、このシャイターンも主の被造物だということです。二元論ではありません。
シャイターンをわざわざ主が創造される、というのは奇妙なことに思えます。火から創造されたイブリースが、その後土より作られた人間に対しサジダ(跪き礼)しなかったことから、主に「落ちてしまえ」と命じられるのですが、そうした事態を全能の主が予期し得なかった筈はありません。また、この時イブリースが「彼らが蘇らされる日まで、猶予して下さい」と言うと、主は「お前は猶予されよう」と認めています。
普通に考えるとおかしなことで、「マッチポンプやないか」とツッコミたくもなります。ですが、それが主の場所であり、不条理で理性においては捉えられないものです。主はわたしたちを試みられるためبلوى(バルワ、試練)を課されていますから、これも試練のためかと思いますが、思っているだけなので本当のことなど分かりません。ただ、主がある人々を「迷わせる」「耳を虚しくする(聞く耳をもたなくさせる」という語りはクルアーンに何度も見られますから、道に迷い主を忘れているのも、元をただせば主によるのです。
ですから、「忘れる」ことは元より織り込み済みである、とも言えます。むしろ、忘れなければ思い出すこともありません。
「残るもの」の話で言えば、わたしたちはある意味、「忘れ」ていなければ、やっていられません。実際、それで99%が回っているのです。しかし同時に、残り1%のことを「思い出す」必要もあります。
両方やって、始めて一です。
これは余談ですが、礼拝というのは「思い出す」契機であり、それを「忘れ」ても金曜礼拝があるし、それも「忘れ」てもラマダーンがあります。
わたしはラマダーンというのは「夏期講習」だと思っているのですが、夏期講習があるというのは、普段は勉強しないでいい、ということではありません。普段全然勉強しなければ、志望校合格は難しいでしょう。建前というか目標としては、毎日弛まず勉強すべきなのです。とはいえ、実際には勉強をサボりがちなのが人というものなので、定期テストとか夏期講習というのがあるのです。
筋道だけで言えば「勉強なんてのは毎日やるのが当たり前なのだから、特別な時期などは必要ない」のですが、一見矛盾するような特別な時期をもうけることで、セーフティネットとしたり気合いを入れたりしているのでしょう。
「残す」ものには名や財だけではなく、子孫もあるでしょう。
子を育て残すことすら「邪念」なのか、と憂鬱になりますが、المال والبنون زينة الحياة النديا(財と子女はこの世の飾り)です。この世を去ってしまえば、財も子女もありません。これら自体、あるいはこれらが「(この世に)残る」ことには、意味はありません。そもそも残らないかもしれません。
ただこれは、財を求めこの世に貢献したり、愛情をもって子女を育てることが無意味だ、という意味ではありません。その行いが正しく行われている限りにおいて、必ず「報いられる」ことでしょう(インシャーアッラー)。ただそれは、これらが「この世」に「残る」かどうかとは関係ありません。その過程での自らの行為だけが、秤にかけられるのです。財が「行い」の結果得られるものだとしても、それは「仮ポイント」であって、「飾り」であり、確定するかどうかは別問題です。
エジプトのことわざにالكفن مالهوش جيوب(死装束にポケットはない、死んだら金は持っていけない)というのがありますが、財は「持っていけない」ばかりか、生きている間にも失われるかもしれませんし、死んで「残し」たつもりでも、百年と経たずに消え失せるのがほとんどでしょう。何をどうやってポケットに入れたかだけが問題です。
と言っても、ここで言いたい核心に関して言えば、狭い意味での財は重要ではありません。
「ガメつくなっても死んだら金は持っていけない」というのは、事実ではありますが、そんなよくあるお説教をしたいのではありません。普通は「死んだら金は持っていけない、だから○○を為せ」として推奨される、この世に残すもの、そちらを問題にしているのです。
「○○を為せ」を否定しているのでもありません。ただ、為すことの目的が、この世に何かを「残す」ことであるなら、そんなものは結局のところ残らないのであり、ガメつくポケットに詰め込むのと同じくらい虚しい、と言っているのです。
「○○を為せ」が意味を為すのは、その行いが(唯一永遠なる)主において測られる限りにおいてであり、他にはなにもありません。そしてこの測られる地点というのは、まったく理性的に到達不可能な領域であり、単に信じるしかないものです。「証拠がある」という人が時々いますが、そんなものは嘘っぱちです。そもそも、証拠に基いて信じるなら、信仰ですらありません。
そして、ここで一番問題にしているのは、一番最後の「測られる行為」というところではなく、そこに至る一歩手前のところ、何も残らない、何かを残そうなどというのは奢ったみっともない念だ、ということです。
これを考えると、とても恐ろしく、同時に静かな気持ちになります。
この残らなさ、残すことを閉ざそうという営みは、(そのほとんどが何一つ残さない)すべての生が等価であるという、途方もなさと表裏一体です。
この不可能な点を見ようと目を凝らすと、永遠の暗闇を見つめているようで、目眩がし恐怖にかられる一方、そこをじっと耐えて待つと、まるで自分がいなくなり暗闇に溶けてしまったかのような静謐を感じます。
死ぬことがこの世で最悪のことなら、その生は空虚なものです。
わたしについて、誰にも何一つ覚えていて欲しくないです。
إنا لله وإنا إليه راجعون
「大切なのは、どこかを目指していくことであって、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはありえないのだから」(サン・テグジュペリ)