『エイリアン』シリーズの前日譚とも言われるリドリー・スコットの「プロメテウス」を観てきました。
正直、映画としては「なんじゃこりゃ」という感じで、リドリー・スコット監督ということで期待していったのを裏切られた思いなのですが、わたしは標準的な映画ファン・SFファンでもないので、まだ観ていらっしゃらない方々は惑わされずに楽しんで来て下さい。
ここでは、映画そのものにとっては本質的ではない(実はそうでもないのかもしれません)、唯一わたしが面白いと思った点について、メモしておきます。ネタバレを含むので、気になる方は読まないでください。
劇中に登場する「信仰」についてです。
「プロメテウス」劇中では、信仰に関わる下りが二箇所あります。
まず、この作品は「人類の起源」に関わる物語で、太古に人類を創りだしたのが宇宙人だ、という背景があります。そして主人公らは、その起源を探るべく、「創造主」の星に宇宙船で旅してきます。
この宇宙船の中で、主人公のショウ女史が十字架のネックレスを下げているのに対し、その恋人が「そんなものはもう外せよ、僕らを創ったのは『彼ら』なのだから」と言います。
これに対し、ショウはこう応えます。「では『彼ら』を創ったのは誰?」。
この回答はなかなか美しく、示唆に富んでいます。
「創造」を巡っては、「創造説vs進化論」という、実に滑稽なひな形があります。そもそもこの二つを二項対立的・二者択一的なものとして掲げてしまっている時点で、この問い自体が信仰に対する救いようのない無知を示しているのですが、驚くべきことに、これを大真面目に取り上げている人々が世界中に沢山います。この偽の二者択一から「創造説」を採るカルト宗教者も、「進化論」を採るカルト非宗教者も、目眩がする程の蒙昧の中にいますが、彼らが必ずしも一握りの人々ではない、ということを思うと、心の底からションボリと尻尾が下がり、一生他人と口をききたくない気分にもなります。
こんな問いは、「筋トレか風呂釜洗いか」くらい馬鹿げたもので、「そんなん両方やれや!」としか言いようがないのですが、筋トレすると風呂釜を洗えないのが悲しい現況のようです。
それはともかく、本作の設定は、人類の起源が「エンジニア」と呼ばれる宇宙人(実際上人間とDNAが共通のため、「人間」と言ってもよい)による、とする点で、いわゆる進化論とは反するものです。劇中でも指摘があります。しかし一方で、これは「創造説」にもなっていない。「創造説vs進化論」という偽の問いの中で、進化論を否定し創造説を採ったかの如き装いを持ちながら、実はその「創造」が、信仰における創造と完全にすれ違っている、ということを、上のショウの台詞は示しています。
彼らは「造り主」を探そうとするのですが、その探求の過程で、探すものを完全に取り違えてしまいます。
どういうことでしょうか。
この「取り違え」は、実は「進化論」の「取り違え」ともパラレルな関係にあります。
彼らは「造り主」を、肉的でイマジネールな存在と誤読し、そしていかにも「肉」的な身体をもった「エンジニア」に向かいます。こうした誤読は、ある意味必然的な誤読で、わたしたちは常にサンボリックなものを、世界内に像を持つと想定されるイマジネールなものを介して理解し、それ自体と取り違えます。
「進化論」もまた、似た形で取り違えられます。進化論(自然選択説)自体は、突然変異と自然選択による無機質なプロセスであり、価値判断やイメージを含まないものです。しかし多くの場合、これが価値判断的なものと誤読されます。ただ、これは単純な誤読と脇へ避けられないところがあります。というのも、よくある「誤った援用」として社会進化論などが挙げられますが、これは進化論の「間違った使い方」というより、むしろ社会進化論的思想が進化論的思想を導いている側面があるからです。これを取り除いた「純粋進化論」は、それはそれとして機能するでしょうし、それ自体を捉えることのできる人々もいる訳ですが、大多数の人々は、常にイマジネールなものへと誤読していきます。そもそもが、イメージを通じてしか接近できていないのです。
「造り主」も「進化論」も、昆虫的で、「使い道も止め方も分からない巨大で複雑な機械」のような不気味なものです。しかしわたしたちは、その不気味を直視できず、肉の覆いをかぶせて、その肉があたかも「それ自体」であるかのように「誤読」し、目を灼かれるのを守るのです。
劇中の人々は、遂に最後の生き残りである「エンジニア」にたどり着きます。
ところが、この妙に生白くムチムチマッチョの「造り主」は、冷凍睡眠から目覚めた途端、物凄いパワーでやっとの思いでたどり着いた人々を嬲り殺しにします。その突然のキレぶりは、見ていて「なんちゅう理不尽なオッサンや」と漏らしてしまいそうな程でした。
死を目前にして「造り主」に最後の希望を託してやって来た宇宙船スポンサーの老人は、「答え」をくれるどころか突然ボコボコに殴ってくる「造り主」に対し、「なにもかも無駄だった」と呟き、絶命します。
しかし、ある意味で「エンジニア」は正しく回答しています。
つまり、彼の出した「答え」は、「圧倒的な理不尽と不条理」です。
「答え」に人間理性の枠内での合理を期待していたがめつい老人は、これを「無駄」と受け止め、つまり何の答えも手にできないまま、この世を去ります。彼にとっては、これが「終わり」だったのです。「理不尽さ」というメッセージは、彼の死へと届けられます。それがそこにしか届かないのは、彼にとってはそれが「終わり」でしかないからです。そして正しく、彼は「終わった」。
彼らは肉的でイマジネールな誤読された「造り主」、つまり偶像を求めて勘違いした旅を続けてきたのですが、最後のところで、突然に真理が示されます。それはツルンとした人間理性的合理に満ちた偽の神ではなく、「使い道も止め方も分からない巨大で複雑な機械」のような、網膜を焼き付かんばかりの主のリアルです。
ムスリムであれば、この風景から、死後「お前の崇めていたものはどこだ、その者に執り成しを願ったらどうか」と言われるムシュリクたちが、崇めてきた偶像(イメージ)からも「いや、わたしたちは単なる被造物だ、こいつらが勝手に道に迷っただけだ」と見放される、何度も繰り返されるクルアーンでの下りを連想することでしょう。
しかしこれは、単に「エンジニア」が偶像(イメージ)であった、というだけではありません。彼の示した理不尽さそのもの、それだけは真に創造の主を指し示しているのです。「エンジニア」は偶像ですが、その理不尽さ自体は、期せずして正しく「答え」となっています。
ここで、劇中でもう一箇所信仰に関わる場面があります。
主人公ショウ女史とアンドロイドのデイヴィッド以外全滅してしまった状況で、なお十字架を探すショウに対し、デイヴィッドはこう言います。「こんなことになって、それでも神を信じているのか」。
ショウはこの問いに直接答えませんが、そのことで暗黙的「信じている」と示しています。正確には、答えないによって、デイヴィッドの理解する「信じる」ではない、別の「信」を抱いていることを示します。もし「信じている」と言葉で答えてしまったら、それはたちまちアンドロイドの理解する意味での「信じる」へと回収されてしまうからです。
ここでアンドロイドの発する問いは、常識的に考えても、いささか滑稽です。
「こんなことになって、それでも」と彼は言いますが、一般的に言っても、人はそんな悲惨な状況でこそ主を信じるものです。こんなズタボロのどうしようもない状況で、主以外の何にすがると言うのでしょう。
クルアーンには、船で航海している間は必死で主を思い出し唱念するのに、陸にあがった途端に「すべては自分の実力」と慢心して、主を忘れてしまう人々が、度々描かれています。
「プロメテウス」の人々は、「船」で旅してきて、しかも大嵐の上に船は沈没、というような状況なのですから、余程信心のない人間でも主の御名の一つくらいは唱えようというものです。
しかし、ショウの示した無言の「信」は、単に船が沈んで泣き叫ぶ人々の薄っぺらい信心ではありません。
彼女は、偶像が結果として示した「理不尽さ」から、強欲な老人とは違うメッセージを受け取っています。
この理不尽さ、絶望的状況とは何でしょうか。試練بلوى , محنةです。バルワ、ミフナとは、語源的に言っても「テスト」です。テストですから、これは入り口であって、出口ではありません。老人にとってはそれが「最終回答」で「終わり」でしたが、ショウはこれを始まりとして受け止めます。
テストというものは誰もが避けたいもので、実にうんざりするものですが、テストがないよりはずっと良いです。テストがなければ、親のコネとか大金を払って免罪符を買うとかしか、「パス」する方法がありませんが、テストは少なくとも万人に開かれています。テストとは、そこでの振る舞い(答え方)によって、「パス」したりしなかったりするものです。始まりであって、終わりではありません。
偶像の果てに突然にむき出しにされた「理不尽さ」そのもの、「エンジニア」の肉から分離された暴力それ自体、それをただ肉の暴力と捉えるなら、老人のように「終わる」しかありません。しかし「試み」として捉えるなら、まだ始まりです。主のメッセージは、ここでもまた、正しく宛名に届いています。
ことわっておきますが、「エンジニア」の「意図」に、主のメッセージがある訳ではありません。彼は単なる「像」、イメージです。彼の意図がどこにあったかではなく、意図の不明さ自体という、彼自身から切り離されたところに、真のメッセージがあるのです。
だから彼女は答えます。「アンドロイドよ、お前の理解する延長的で想像的な『信』をわたしは持たないが、お前の理解しない理不尽な『信』を抱く」と。
その結果、彼女は地球に帰るのではなく、「彼ら」の来た星へと更に旅することを選びます。
これは外見上、さらなる偶像を求める旅ですが、見た目上の行いがどうであるかは重要ではありません。なぜなら、イメージへの誤読が必然であるように、わたしたちはイメージを通じてしか真の対象に接近できないからです。問題は、イメージをそれ自体と取り違えるか否かです。ですから、彼女のこの新たな旅が、主にいかに受け止められるかは、実際にその足取りを辿ってみなければ分かりません。
プロメテウス アート・オブ・フィルム マーク・サリスバリー 石川裕人 ヴィレッジブックス 2012-07-30 |