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「わかっていない」ことをわかってしまっている時、わたしたちは外国語を上手く話せていない

 真理を語っている時、わたしたちは常に「自分の言っていることがわかっていない」。
 そして母国語で話す時、あるいは十分にある言語に「感染」されたとき、わたしたちは「自分がわかっていない」ことがわからなくなる。
 慣れない外国語を話す時、わたしたちは「何を言おうとしているか」を知っている。翻せば、「わかっていない」ことをわかってしまっている。期せずして意図せぬ理解をされたり、あるいは何も理解されなかったり、という可能性に怯えている。何が語られてしまっているのか、何がわたしたちの口を借りて繁殖しているのか、知悉し切れないということに自覚的なのだ。
 だから、この「自覚」を果てしなくゼロに近づけることこそ、外国語を学ぶという行為だ。
 わかっていないことがわからなくなった時、わたしたちは言葉を「流暢に」話している。
 そして「自覚」が失われる前でも後でも、真理は知らない間にだけ伝達されている。

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