イラク崩壊―米軍占領下、15万人の命はなぜ奪われたのか 吉岡 一 合同出版 2008-09 |
イラクの現状を伝える朝日新聞特派員によるルポ。ジャーナリストが少なくとも今より安全だった2004年当時の記述も多いことから、開戦から現在に至る状況の変化を概観する上でも有効です。帯はイラクと言えばこの人の酒井啓子さん。
個々の取材内容もさることながら、行動を共にしているイラク人アシスタントとのやり取りが生々しく、興味深く読めました。
武装勢力と呼ばれる組織に身を投じ、米軍と戦って死んでいく何千ものイラクの若者は、ほんの最近まで、「アルカイダ」とも、「9・11米同時多発テロ」とも、何の関係もなかった、という動かし難い事実だ。イラクで今、テロリストと呼ばれてるどんな人間も、米軍が来るまで、テロリストと呼ばれる理由もなければ状況もなかった。
(襲撃の取材で目撃者の大学生に話を聞いた後)彼は、一通り目撃談を話した後、熱心に語った。
「ぼくたちは、サダム支持者でもなければ、バース党員でもない。しかし、米軍に侵略され、生まれた町が攻撃を受けている。聖戦に立つのは当然だ」
「米国はイラクの分裂を狙っている。ぼくはサダムのやり方を支持してはいなかった。しかし、サダムの方がはるかにましだ。米軍は、武器狩りと称してイラク人から金を盗み、車を没収し、地面にはいつばらせて、ぼくらをネズミのように、動物のように扱う。フセイン政権のときには、こんなことは絶対になかった」
(足が不自由なのに米兵の尋問を受けた老人)「私は、英国の植民地時代を覚えているが、あのときの英兵よりも、米兵ははるかに乱暴だ。英兵はこんなことはしなかった」
暫定政権が発足し、その取材に大統領府を訪れた筆者が見たのは、外国人の兵士に守られる大統領の姿でした。
インタビューの間も、護衛は大統領執務室にずっといた。同じイラク国民を信頼できず、イラク人に身を守ってもらうことしかできない、アラブの弱弱しい大統領。それを取り囲む屈強な白人たち。
私は、こんな場面をどこかで見たような気がした。
ラストエンペラー。
そうだ。最後の皇帝溥儀が、日本人官吏と日本軍人によって取り巻かれているシーンにそっくりではないか。
一つ知らなかったことは、韓国がイラク駐留と援助で非常に成功している、ということです。空回りの感が否めない日本軍(敢えてこう書きます)とは好対照に、比較的治安の良いクルド地域に駐留し、適切な援助で本当に現地の人びとの感謝を受けているそうです。建造施設にデカデカと描かれる太極マークはいささか趣味が悪いにしても、「国益のため」に軍を出す点を割り切るなら、韓国は日本より圧倒的にうまくやっていることになります。
ブッシュの「大義」が大嘘であることは言うまでもないにしても、石油利権が目的、というのも合点がいかない、と筆者は語ります。フセイン政権打倒から間もないうちに、米軍は石油省から手を引き、「掘れば出る」状態のクルド油田にも、石油メジャーは手を出さないまま。
そして、イラクの石油輸出による収入は、米国のイラク占領後08年5月末までで総計1439億ドル。一方のイラク戦費は8450億ドル、隠されたコストも含めれば3兆円との試算もあると言います。どう考えても、「割に合わない」仕事です。
結局イラク戦争の本当の目的は「イスラエル防衛」である、という、アラブ人なら最初に思いつく解釈に筆者は落ち着いていきます。アメリカはイスラエルにとって危険な国とはどことでも戦いたいし、アメリカとイスラエルだけが世界中にで何をやっても「許される」のです。
しかしここから、「宗教イデオロギーの対立」にまとめてしまう筆者の論調には、いささか危険を感じないではいられません。多くのアラブ人は、イスラエルという国家を宗教的な意味での「ユダヤ」として認識していますが、まずこの点で既にヨーロッパ的な見方とすれ違いがあります。ヨーロッパにとっての「ユダヤ」は、第一に「民族」であって(もちろんこの「民族」は想像的なものにすぎないわけですが)「宗教」ではないでしょう。これに加え、アラブ人は「ユダヤ」が非道を働いているにせよ、ユダヤ教そのものが悪、というナイーヴな還元は、少なくとも当初は行っていなかったはずです。問題は政治と実際の行動であって、宗教原理ではありません。「宗教イデオロギーの対立」を前景化してしまうと、解消し得ない宗教原理対立に状況が単純化されてしまいそうで、素直に首肯することができません。そういう要素があるのは間違いないにせよ、十分な留保をつけるべきです。
もし「宗教イデオロギーの対立」があるとしたら、その構図を前に出したのはアメリカであって、イスラエルでもアラブでもありません。おそらくはイスラエルという国家、そして「ユダヤ人」とそのものが、ヨーロッパの「症候」であり、それがアメリカというヨーロッパの子供により、一番極端な形で回帰してしまった、ということではないでしょうか。
根底にあるのは、何かの「後ろ暗さ」なのです。それを拭いさるために、イスラエルという国家が建設されました。しかし多分、贖罪の方法として、これは適切ではありませんでした。
信仰を失った欧米の「元キリスト教徒」たちは、思い出すべきです。必要なのは人間の勝手による贖罪ではなく、神への感謝なのだということを。罪は常に、不本意なまでに贖われているのです。一番恐ろしいのは、罪を負っていることではなく、それが思いもよらず許されていることです。わたしたちの存在はそれ自体罪であったとしても、予め圧倒的に許されて存在しているのです。その「許可の過剰」が最も重荷なのであり、祈りとは「有り余る幸福」を神様に返すことです。
「元キリスト教徒」たちよ、あなたたちはあなたたちの伝統と信仰から、あなたたちの思っているほど「自由」になれていないことに気づかなければなりません。罪を認めるだけでは十分ではありません。必要なのは、贖罪ではなく感謝です。ただ感謝すれば良いのです。
アメリカは国の成り立ちからして、「原理主義」の名に最もふさわしい国家です。「原理主義」とは、信仰が一度去勢され、世俗化した後にやってくる「宗教の鬼子」です。その「鬼」を宥める方法があるとしたら、それはわたしたちが、自分の思っているほど「世俗的」になどなれていない、ということを認めることです。
あなたは神様を裏切ったと思っているかもしれませんが、その裏切りもまた、神様はもう赦してしまっているのです。だからただ感謝しなさい。あなたの身勝手な「贖罪」は、罪をより一層深くするだけなのですから。