イスラームの預言者物語 (イスラーム信仰叢書3) ムハンマド・ブン・ハサン・アルジール 水谷 周 国書刊行会 2010-06-18 |
預言者物語とあるので、預言者伝かと思っていたのですが、出生から数々の戦いを辿るよくある預言者伝ではなく、後半は様々なテーマに沿ってハディースを集めたものでした。
それが新鮮で、かつ非常に面白いハディースが多く、楽しく読めました。翻訳も美しい日本語です。
これらのハディースのうち、特に気に入ったものを簡略的な形ではありますが、ここに転写しておきます。
かつてイスラエルの民の中にある二人の男がいました。そのうちの一人は勤勉にアッラーに仕える者で、もう一人はアッラーの法を越える者でしたが、二人は兄弟のような関係でした。勤勉な男は友人が罪から遠ざかろうとしないのを見咎め、「友よ、止めなさい」と言いました。しかし彼の友はこのように言いました。
「わたしのことは主に任せておきなさい。あなたはわたしの監視役として遣わされたのであろうか?」
そんなある日、勤勉な男は、友人が彼から見て大罪と思われる罪を犯すのを見て、彼にこのように言いました。
「あなたに災いあれ。そんなことは止めなさい」
しかし友人はまたこのように言いました。
「わたしのことは主に任せておきなさい。あなたはわたしの監視役として遣わされたのであろうか?」
そこで男は思わず友人にこう言ったのです。
「アッラーに誓って言うが、アッラーはあなたを決してお赦しにならないし、あなたを楽園には入れられないだろう」
それからアッラーは二人の許へと天使を遣わされ、彼らの魂は天に召されました。やがて天上で二人が招集されると、主は積みを犯していた男に対して、このように仰せられました。
「行きなさい、そしてわれの慈悲によって楽園に入りなさい」
しかし、アッラーはもう一人の男に向かってこのように仰せられたのです。
「あなたはわれについて充分に知っていたのか? あなたはわれが手にしているもの(限りない慈悲や恩恵)について充分に知っていたのか? (そして天使たちに向かって)彼を連れて火獄へ行きなさい」
アブー・アルカースィム(預言者ムハンマドの呼び名)の魂をその御手にお持ちになる御方にかけて言いますが、その者は自分の現世と来世を滅ぼす言葉を口にしてしまったのでした。
これは格別気に入ったもので、非常に重要なメッセージを含んでいます。
念のためですが、友を思って助言すること自体が悪なのではありません。むしろ積極的に介入することは奨励されてすらいます。しかし、たとえ友を思うあまり、あるいは「信仰心」ゆえであったとしても、主の裁定について知ったような口をきいて、他人に影響力を行使しようとするのは、法を越えた行いよりも尚悪い、ということです。
時々、所謂「原理主義者」の起こしたテロや、ムスリムの働いた悪事について、「あんなのはムスリムじゃない」と言うムスリムがいますが、たとえ彼らが「とても悪いムスリム」であったのしても、信仰のある限り、依然としてムスリムです。裁定を下されるのはアッラーのみなのですから、わたしたちはこれに先んじて軽々に人の信仰を裁いてはならないし、まして主の御名にかけて主の裁定を宣言し、影響力を行使しようというのは、身の程を弁えぬ行為と知るべきでしょう。
ある時一人の男が、「今夜私は必ず施しを行おう」と言いました。そして施しの金を持って出かけ、(それと知らずに)姦婦に施しをしてしまいました。
すると翌朝人々は、「ゆうべは姦婦が施しを受けたそうだ」と口々に離しました。そこで、男はこう言いました。
「アッラーよ、姦婦に施しをしてしまいましたが、あなたにこそ賞賛がありますように。それでは再び施しをしよう」
(中略:このようにして男は姦婦、金持ち、盗人という、施しの相手にふさわしくない者たちに、それと知らずに施してしまいます)
するとそこに天使がやって来て、男にこのように告げました。
「あなたの施しは(アッラーの許で)受け入れられました。あの姦婦は、きっとあなたの施しによって姦通の罪から身を守ることでしょう。またあの金持ちの男はきっとあなたの施しに教えられ、アッラーに与えられた恵みの中から、アッラーの道のために財を費やすことでしょう。またあの盗人は、きっとあなたの施しによって盗みの罪から身を守ることでしょう」
日本で暮らしていると、物乞い的行為を侮蔑する言動に多く触れ、とても驚くのですが、物乞いは立派な権利であり、主より施されたものを分け与えるのは義務です。そして、施しを行う時に、少しでも役に立つよう、必要とする人に行き渡るよう、考える、というのは、至極もっともなことで、気持ちはよく分かるのですが、極端な話、どう使われようがとにかく施すことが先決です。施すというのは、その財を相手に投げてしまうことで、使い道云々についてガタガタ言うようなものは施しというより投資の類です。
中には、施された金を不正に蓄財したり、不具でもないのに不具のフリをして哀れみを乞う者もいるでしょうが、もしそれが正しくない行いなら、主が必ず裁かれるでしょう(主のお望みあらば)。そもそも不具のフリをするのは既に立派な仕事かと思うのですが、その辺の議論はおいておきます。
大事なのは、財が動くということであって、それがどこへ行くかというのは、どうでもいいことではないにせよ、一番大事なことではありません。
どんどん物乞いして、後先考えずに施したら良いと思います。
あなた方以前の民の中に、傷を追った一人の男がいました。彼は痛みに耐えかねてナイフを取り出し、手を切り落としました。それで血がどんどん流れ出て、とうとう男は死にました。すると至高なるアッラーはこのように仰せられました。
「このしもべは定められた寿命を自分で早めたので、われは彼に楽園を禁じる」
これは少なからぬ日本人の反感を買いそうなので、敢えてとりあげました。
自殺する人の多くが、自殺しても仕方ないような苦しみを抱えているもので、これには同情したくなります。気の毒だとも思います。またわたし自身も、死にたいと思うことが何度もありました。
ですから、個人的には情状酌量の余地はあって良かろうと思っていますが、そうした声が大きくなる余り、自殺が何をおいても「悪い」ことなのだ、という見方が脆弱になっていることを危惧しています。
以前に松本人志さんがラジオで素晴らしいことを言っていました。
一番悪いのは自殺することですよ。これを誰も言わないんですよ。
もう皆可哀相可哀相ってやるじゃないですか。こんなね、報道の仕方してたら自殺減らないですよ。皆味方してくれると思うもん。
僕が死んだら皆が味方してくれんねやと思ったら自殺する奴どんどん増えますって。
腹たってしゃーないねん。
なんだかんだ言いながら、自殺する奴はアホやって誰か言わんと。いじめられて死にたくなる気持ち分かる。
でもね、やっぱ一番罪深いのはね自殺なんですよ。自分で自分の命を絶つことが一番罪深いんですよ。
だからそれをやることが一番あかんねやってことを言わんとね。そりゃ俺ももしいじめられてたら、俺今死んだら、俺をいじめてた奴とか、皆こんだけくそみそに言われんねや。俺は物凄いええもんになる、皆可哀相可哀相と言うてくれる、俺も死のかなって思うって。それをね、誰一人言えへんからねー。
どこどこが悪い、いやそれも悪いですよ。
学校も何や、悪いですよ。いや、勿論じめる奴も悪いですよ。
悪いけども。馬鹿や!!と、自殺する奴は馬鹿なんや!!って言わなあかんねんて。
別の箇所で松本氏は、中学だか高校だかの先生が最後に言ったセリフとして、こんなエピソードを語っていました。卒業か年度の終わりの、最後の授業でのことだそうです。「一つだけ、お前らに絶対やって欲しくないことがある。これだけはやるな」。そう言われて生徒たちは、殺人だとか何だとか、色々な悪業を考えるのですが、先生の言ったのは「親より先に死ぬな」ということだったそうです。
素晴らしいですね。松本人志さん、ムスリムにならないですかね。ならないでしょうね・・。