実際は全く本を読まなくなったというわけではないのですが、この一年くらいは、人生で一番本を読んでいません。
「やめるぞ!」という決意があったわけでもないのですが、何となく読まなくなりました。
子供の頃は、とにかく本を読むことだけが唯一の楽しみで、人生を通じて酷い活字中毒が続いていたのですが、晴れて毒が抜けてきたのかもしれません。
おそらくは、書記的なものの見方、模式的に言えば、通時的であるよりは共時的、機能的であるよりは構造的、不可逆的であるよりは可逆的、そうした思考法に浸かって成長し、同時に、この枠組の中で非-書記的なるものへと接近しようとするような試みを繰り返してきた訳ですが、いい加減そんなものも馬鹿馬鹿しくなってきたのでしょうか。
誤解を恐れずに端的に言い切ってしまうなら、わたしは字が読めなくなりたいのです。
字が読めないというのは、何という素晴らしい世界でしょう。
正確に言えば、字が読めない世界というものを理解したい、確実に自分自身の中にミーム的に受け継がれながら、直視することのできないわたし自身の一部、そうしたものを回復したいという夢を抱いているのです。
こういう夢想というか、願望のようなものは、「小賢しく」育ってしまった子供たちが、人生のある一時期で多少なりとも抱くものかと思いますが、大抵は諦めて、字が読めてしまう世界に埋没し、字が読める心をもって字が読めない人々を語るような、学者的文脈までで事足れりとしてしまうのです。それが真っ当な大人というものですが。
しかし実際のところ、字が読めないというのは、こういう頭でっかちな人間の考えているほど凄いことではなく、一応字が読めても、大して読めてはいない、大して読みもしない、そういう人たちは、「識字」能力者の中にも大勢います。むしろスタンダードなくらいです。そういう人たちは、残念ながら字が読めてはしまうのですが、実際は自分が思っているほど読めていないので、結構「字が読めない」心に引きづられているのです。たぶん、これくらいの立ち位置が、一番健全です。この人達は普通、敢えて「字が読めない」心について思考したりはしない。健全です。
また全く別のお話として、字を書いて本の形にしている人たち、作家とか学者とかいう人種が、根本的に嫌いであって、年を追うごとに心底嫌気がさしてきたというのもあります。
読書の快楽というのは、これまたいかにもミスリードしそうな言い方をするなら、作者の顔が見えない、人間性が剥ぎ取られているところに一つの端緒を持ちます。去勢されて、透明な書き手になって、美しい書記だけが降りてくるから気持ちよく酔えるのであって、実際の書き手のオッサンとか印税がどうだの献本がどうだのといった生々しい話が聞こえると、酩酊感というのはちょっと醒めます。商売であれば、醒めようがどうなろうが頑張って読んだら良いのでしょうが、こっちは幸い商売でもないし、旨くもない酒を無理して飲む義理もありません。
余談ですが、ものを書いている人間と会う時は、その人の書いたものにひと通り目を通しておくのが礼儀、みたいな決まりごとがあって、これも実に鬱陶しい。とりあえず会ってみて、面白い人だったからハテどんなものを書いているのやら、と読んでみる、というのは分かりますが、どんな人かも知らず、ただ本が置いてあるだけなら読みもしなかった筈のものを、「会うから」とかいう理由で無理やり読まされる、あるいは読ませる、というのは、全く合点が行きません。
①読んだら面白かった。だから会ってみる
②会ったら面白かった。だから読んでみる
というのは普通だと思いますが、会ってもないし面白いかどうかも分からないのに、渡世の義理みたいなもので本を読ませる、読まされる、というのは実に気色が悪い。
本を書いている人には極力会いたくないし、わたしの書いたものも、社交辞令でなら断固読まないで頂きたい。印税が入る類であれば、買ってくれるのは大変有り難いですが、買ったらすぐ燃やして欲しい。古本屋に売られると困る。
書き手の「人間性」が抹消されて、美しい書記だけが降りてくる、というのは、子供っぽいファンタジーではあるのですが、そもそも書記というのは、かなり長い期間そういう特別な種類のものだったでしょう。だからその快楽だけを考えるなら、「人間臭い」奴らの書いた本などを読むのは、愉しみとして二流とも言えます。
だから読むなら古典が良いし、もっと言えば聖典だけ読んでいればいい。
ムスリムが多数派の地域だと、読むものといったらクルアーンとハディースで、他のものなんか読むだけ時間のムダ、という人たちがいます。現代日本で生まれ育った感性からすると、その極端な発想もどうなんだ、とは思うのですが、わたし自身も段々そういう発想に毒されてきたのかもしれません。
大概において、読んで「役に立つ」ものなどはほとんどないし、「人生を豊かにする」などというのは、唾棄すべき「文化」の発想ですから、本当の意味で「役に立つ」聖典だけで事足れりとするのは、一つ理はあるのです。
実際、読書というのは、基本的にただの中毒であって、酒や煙草の中毒者が「人生を豊かにする」と言っているのと特段変わりはありません。もちろん、人間多かれ少なかれ何かの中毒な訳で、添え死ぬ相手として(酒の代わりに)読書を選んだ、というなら、それはそれで筋は通っていますが。
個人的に子供の頃を思い起こすと、確かに書籍代はふんだんに与えられはしたものの、わたしは大抵「役にも立たない」小説などを読み耽っていたので、親から言われたのは「本ばかり読むな」ということでした。そのせいもあって、読書というのはどうも良からぬものであって、できれば一念発起してやめるべきものなのだ、と考えていたのかもしれません。
もう一回聖典のところに戻ると、聖典というなら、これは読書というより、音を覚え、読誦するものです。「通時的であるよりは共時的、機能的であるよりは構造的、不可逆的であるよりは可逆的」な読書とは相反する場所から来ているのです。
実際のところは、既に書かれてしまって、書かれた静的・無時間的なものとしての聖典(の印刷物)が「聖典」そのものの如く受け取られてはいるし、その見方から発展する果てしない学問的迷宮というのも、暇つぶしという意味では多いに値打ちがある(暇を潰すことは人生の重要なミッションです)わけですが、その前提から出発してしまっては、やはり真価は味わえないはずです。
音が流れ、見る間に消えていくというのは、そこに共時的で静的なロジックを期待しても仕方がない、ということです。ですから、聖典には構造的な理屈で考えると、支離滅裂としか言いようがない箇所がたくさんある。そんなのは当たり前であって、その支離滅裂さを挙げて「意味がわからない」あるいは「意味がない」というのは、ボクシングの試合を柔道だと思って眺めて「パンチは反則だ」というのと同じくらい頭がおかしいです。
ではどうするのか、支離滅裂なものの向こうにある「もう一つのロジック」に到達するのか、というと、何か神秘主義的な手段をもって超-論理みたいなものに接近するぞ、と考えてしまうと、これはもうトラップに嵌っていて、その発想自体が、既に「字の読める」世界の釈迦の掌です。
ロジックは一つしかない。字が読めるロジックです。
だから、もうここは一旦、辻褄合わせということは括弧に入れないといけない。どちらかというと、読書よりは筋トレに近いものとして取り組まないといけない。そんなことをしても、「超-論理」とかには到達しません。ただ、疲れて眠くなるので、寝たらいいです。
さらにまた話が飛ぶようですが、「文章を下手になろう」というのも、ここ十年くらい考え続けてきたことでした。
「良い文章」などを書いてしまうと、書いている先から分かった気にになって、そこで止まってしまうのです。読む方も、スッキリ分かった気になって、気安くお持ち帰り、事が済んだ気になってしまいます。
そんなものはまったく嘘っぱちだし、何も終わっていない。だからどこに収束しようとしているのやらサッパリ分からない、あっちに行ってはこっちに戻る、そういう下手くそな文章を書くようにしよう、そういう文章しか書けなくなろう、と考えていました。
その甲斐あって、どうでしょう! まったく支離滅裂で何が言いたいのか分かりません。
わたしは読書をやめました。