ヨーロッパの改宗ムスリムについて、興味深い点を指摘されているエントリがありました。
改宗ムスリム(主にムスリムが多数派の地域からの移住者と結婚したヨーロッパ人女性)が、「過激化」していく傾向がある、ということです。
イスラム教徒になるヨーロッパ女性 – ヨーロッパご飯作り日記 in ベルギー
好きになった人と添い遂げたい、彼とうまくやっていきたい、というのは女性なら当たり前の感情だ。
だが、まったく違う文化・宗教などの環境にはいったとき、金髪や白い肌の彼女たちは、思いっきり目だったことだろう。
彼女たちは自分たちを「より彼の社会の一員らしく」見せる必要があった。上のサイトで
「王より王党的、という表現があるが、往々にして改宗者や転向者はより原理主義的、より過激になる傾向があることはよく知られている。仲間に同じ仲間であると認められたいという気持ちが人一倍強いからである」
と言っている。彼の仲間に自分も仲間と認められたい、彼に恥をかかせたくない、という感情は健気で可愛らしい。。でもこの感情が、ニベールの母親を孤独にし、シャルルロアの娘さんを自爆テロに走らせたとしたら、本当に悲しい。
この辺りはムスリム少数派地域に住む一匹の信徒としてよく考えることで、日本人ムスリムにしても、自爆テロこそしないものの、やや強迫的に「良きムスリム」たろうとしている人が時々います。
もちろん「良きムスリム」たることが悪いわけがないのですが、新参者が先陣を切って鉄砲玉になって出所して親分に、みたいな情念にかられているとしたら、物悲しくもあり、滑稽でもあります。
そういう事を言うのは、心情的にはこれがよく理解できるからで、またそのことが、入信前に随分悩まされたことの一つでもありました。
わたしはそんな、「すごいムスリム」になどなりたくなかったからです。
そしてムスリムのほとんどが「すごいムスリム」などではちっともなく、どちらかというとロクデナシばかり目につく、というところを、肯定的に評価しなければならないのです。
口を開くと聖人君子のような立派なお題目ばかり唱えるボーンムスリムがいますし、何か良からぬ事件があると「ムスリムがそんなことをするわけがない」「アメリカの陰謀だ」とわめき立てるムスリムもいますが、ムスリムがそんなご立派な方ばかりなら、シャリーアもヘッタクレもありません。初めから基本ロクデナシ集団だったからこそ、色々「アカンこと」が決まっているのです。
わたしたちの生はمحنةでありテストですから、正解したり間違えたりします(動物は全員合格らしい。動物になりたい)。全員正解できるようなテストはダメなテストです。神様がそんなダメなテストを作るわけがないでしょう。相当数のムスリムが赤点取って補修受けたりするくらいが当たり前です。
そして、そんなダメなムスリムであっても、自分自身をムスリムと自認し、アッラーを信じ跪く限りにおいて、それでもやはりムスリムなのです。「あんなものはムスリムではない」とは、タクフィール(不信仰者宣告)ではないですか。そんなものの方が余程ハラームです。
むしろそういうロクデナシを大量に抱えたまま、それでも「まっすぐの道」を求めるから、イスラームは懐広く、素晴らしいのではないかと思うのですけれどね。人殺しも戦争も全部含めてイスラームなのだと、わたしは考えています。この世の綺麗なところだけ切り取ったような思想など、信じるに足りないし、少なくともわたしは、アッラーがそんなものを下されるとは到底思えない(もちろん下されるかもしれない。わたしは知らない)。
最初にエジプトに行った時、今思えばかなり無謀な振る舞いまでして、実に多くの人々と接触しました。もうほんとに、ムスリムの風上にもおけない人が一杯いました。それでイスラームが嫌になったかというと、むしろ入信に勢いがつきました。「ああ、このアホくらいのことやったらウチでもできるわ」と安心しました。
各方面から怒られそうなことを言いますが、わたしはそれくらいで沢山です。
わたしはダメなムスリムになりたい。
いや、あんまりダメだと困るのですが、60点でギリギリ「可」が取れるくらいで満足です。
大体、イスラーム云々以前に自分の人格を振り返れば、ロクでもない人間がロクでもない人生を歩んできたのは明々白々としていて、それがちょっとシューキョーに入ったくらいで、コロッと満点人間になんかなれるわけがないのです。「なれる!」とか「なれました!」という人々や集団を、わたしは全く信用しません。大方変な葉っぱでもキメているのでしょう。
この世の中にそうそう特別なものなんてない。イスラームは基本的には、そういうことを言っていると思います。特別な場所だってマッカとマディーナくらいで、どこぞの聖者が埋められていてもそんなものただの墓です。ムハンマド様صの逸話についてすら、水の上を歩いたとかパンがどんどん増えたといった類はほとんどありません。まして一般信徒のわたしたちが、そんな「特別なもの」に出会うわけもない。
普通に生きろ。それが一番凄い。そういう暗黙的なメッセージが、あるのではないかと、わたしは考えています。
だからわたしは、ダメ、というか、「けっこうダメ」くらいなイスラーム教徒でやっていきたいです。
「いや、ワシは凄いムスリムを目指すんじゃ!」というなら、別に止めませんが、はっきり言ってそんなもの大して立派なものでもないし、別に尊敬もしません。大体、アンタが「立派」かどうかを決めるのはアッラーだけですから、どこぞのヒゲの先生の言う通りにやって満点取れる気でいるなら、それこそ道を踏み外しているでしょう。
この世はとても良くできたテストなのですから、赤本とか教科書ガイドみたいなものはありません。「良き」ムスリムをやって百点取れる気でいるなら、それはちょっとテストをナメすぎというものでしょう。
急いで行ってもゆっくり行っても乗る渡し船は一緒1。