アキレスが亀に追いつく(そして追い抜く)、その隙間の無さというのは、「世界が見たままである」ということと並行的だ。
「世界が見たままである」という時、別の二つの可能性を念頭に置いている。
一つは独我論。
今一つは、相対主義的な「見え」と「対象自体」の関係。
一般的には、前者は「誰もが理性により了解可能だが屁理屈にすぎないもの」、後者は「常識的・良識的見方」だが、生活世界においては後者すらもあまり顧みられず、素朴に「世界は見たまま」に捉えられていることがほとんどだ。
「見え」と実体が異なることは「常識」だが(本当のところ、倫理的な意味での「良識」なのだが)、「見え」と実体の間の隙間がいかに埋められるのか、個々人間の「見え」の差異がいかに埋め合わされ、相互交通が可能となるのか、この深淵な問いに対して明瞭な答えを携えている人は少ない。少ないが、日常生活においては、この問いが不問に付されたまま、相対主義的「良識」と、簡便で暴力的な素朴実在論が、無造作に使い分けられている。
この問いに答えられないということは、いつでも独我論への扉が開かれる、ということなのだが、普通の人(神経症者)は、これを問わずに矛盾を孕んだまま乗り切ることができる。
アキレスが亀に追いつけず、「見え」が永遠に実体に追いつかず、かつこの隙間を埋める者として、つまり「見え」の牢獄に閉じ込められた諸主体(他我)の交通を可能たらしめる者として、神が降臨するのではない。「隙間」に神がいるのではない。
むしろアキレスが亀に追いついてしまう(そして追い抜く)、その「隙間」の無さ自体が、神により取り持たれている。(この両者は、現象としては区別できないが)
独我論的にモノとコトバが張り付いた世界が、狂気たることなく相対主義と連続する、それがアキレスが亀に追いつくということだ。
だから神は、日常世界の言葉遣いの中では、矛盾して現れているのが当然なのだ。「見え」と実体の永遠の神経症的隙間を不問に伏し、素朴実在論者の如く振舞うように。神はイマジネールな領域では支離滅裂に振舞う。
世界が見たままである、ということは、非常に恐ろしいことだ。それは独我論と背中合わせであり、かつ相互不可侵的な相対主義にとっても危うさを孕む。しかし、ここで相互不可侵条約を世界の了解の仕方にまで持ち込むと、「わたしたち」は分断され交通経路を失う。
実際のところ、わたしたちは交通可能だ。交通可能のように見える、のではない。交通可能なのだ。つまり、世界は見たままだ。
それは、支離滅裂な他者の介入により、アキレスが亀に追いつくからだ。世界は見たままだ。尚且つ、わたしたちはまだどこにも閉じ込められてはいない。
ところで、追い抜いた後のアキレスはどこに行くのだろうか。
その行き先を、アキレスは「自由意志」により選択しているのだろうか。