Categories: メモ雑記

自粛、頑張れ、不幸の伝染

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。

どう考えたら、今、頑張れるんだよ。
ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか?
「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな」
とか言われたい。
「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから」
とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。

「何か、できることある?」
何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、
「正直、不幸になってくれたら嬉しい」
と言われた。
「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、
 俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」
と言われた。

 これが本当の話なのかどうかは分かりませんが、ある種の本質は射抜いています。だからインパクトがあるのでしょう。
 自粛も頑張れも似たところがあって、要するに不幸が伝染らないように小さく縮こまってる、ということではないでしょうか。
 ここで花見でもしてパーッとやったら、目立ってしまって、東北の方から不幸が飛んできて取り憑かれそうでしょう。
 頑張れというのは、縮こまるのとは別の戦略で、伝染ってくる不幸の力に気づかないフリをして不幸を弾こうとしてる、とも言えます。一応気を使って「頑張れ」より「頑張ろう」がよく使われているようですが、いずれにせよ、何かプリプリした膨らんだ風船みたいな力を使って、こっちの方に伝染しそうな不幸を押し戻そうとする感じです。
 実際、不幸というのは、他人に伝染すと結構治ります。
 自分が不幸でも、他人も一緒の不幸になると、いくらかマシになるものでしょう。周りみんな貧乏人の時は、貧乏なりに何とかやっていたのが、金持ちの国に出稼ぎに来たら、段々ムカムカしてきて人殺して金品奪ってしまった、というような話もあるでしょう。話は違いますが、だから平等はとても大事です。金持ちにとっても貧乏人にとっても。
 念のためですが、当然ながら、本当に不幸がボヤーンとしたお化けみたいな格好をして人から人を渡り歩いたりする訳はありません。そんなことは誰でも知っています。知っているけど、伝染るような気がするし、結果としては実際に伝染ったかのように振舞ってしまうのが人間というものです。だから「不幸が伝染るわけないだろう」などと説教しても無意味です。それくらい子供でも知っていますから。
 ではどうするのかというと、勿論特段解法があるわけでもありません。わたしも不幸が伝染ったら嫌です。
 ただ、わたしならربنا يستر(ラッブナーユストル、主が災いを覆われるように)とでも、ドゥアー的なものをモゴモゴ言うでしょう。これもまた不幸から身を守る方便という意味では、自粛や頑張れと大して変わりありません。ただ、頑張れとか頑張ろうと言うのと違って、頑張るのは専ら神様ですから、多少なりとも人間たちの負担は減らせているかもしれません。
 ごちゃごちゃ言っていないで手を動かせ、というのはまったくその通りで、金品送るなり微力ながらやることをやった方が良いのは勿論でしょう。実際に「不幸」な人たちにとって、一ミリでもマシになるのはそっちだけで、これはやるし、やった方が良いです。でも、十分ではない。十分ではない、というのは、「不幸」な人たちにとってではなく、外野の安全圏にいる者にとって、十分ではないのです。それだけでは、まだ不幸が飛んできて伝染る気がしますから。
 そういう訳で、人間たちは色々とオマジナイをしますし、オマジナイはとても大切なものです。結果としては、それで不幸を防げる場合が本当にありますから。
 勿論わたしは、ムシュリキーンの企てる諸々なオマジナイは、唾棄すべき迷信であるとして排除します。変なお守りだの仏像だのは燃やした方が良いと思っている原理主義者です。ただ唯一の神に対しドゥアーします。そうすれば本当に、主がお望みであれば助けて下さると、本気で信じていますから。少なくとも、ただ金品を送る等の「身も蓋もない」行い「しか」しないでも、その意味を信仰を通じて再解釈できるなら、それ自体を「不幸を弾く」力に転換できます。1

  1. この「迷信」に対する態度は、わたしに限らず、多くのムスリムたち、少なくともわたしの知っているほとんどのボーンムスリムに共通して見られる性質で、かつ信仰について知るには興味深い契機を含んでいます。どういうことかと言うと、「そんなものは迷信だ」という態度自体は、自称無神論者の多くの日本人にも、平凡なムスリムにも、共通して見られるものです。ただ、自称無神論者は「だから神も仏もあったものか」となるのに対し、ムスリムは「だから唯アッラーに帰依するのだ」と考えるのです。「どうしてそうなるのか」と首を撚るのは健全な印で、逆にそこで「だから」と方向転換して向かう先のものとして、イスラームを眺めれば、ゲシュタルトが転換するように信仰というものが分かる契機がある筈です。勿論、分かりたくないなら分からなくて結構なのですが、わたしなら好奇心に負けるし、実際負けてこの通りです。好奇心に負けない人生なんて退屈じゃないですか。
    この件は本当はエントリを立てて書こうと思っていたので、そのうちまとめるかもしれません。 []
kharuuf

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kharuuf

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