邪悪なものの鎮め方 (木星叢書) 内田 樹 バジリコ 2010-01-23 |
ブログを拝読することはあっても、考えてみると内田樹さんの本を買ったことがない、と言ったら、近しい御方に「あるやろっ」とツッコまれました。
確かにありました。『私家版・ユダヤ文化論』等の、フランス文学者あるいは「ゲンダイシソーの人」として内田先生の著書です。
でも、その後「養老孟司化」した内田氏の著書は、キチンと読んだことがありませんでした。
そう、こういうのを「養老孟司化」と呼んでます。どこぞの道を極めた御方が、「コイツに世の中語らせると面白いぞ」と発見されて、ヨン様からイラク戦争まで語り出してご意見場になる現象のことです。
「養老孟司化」するのは、確かに本当に頭のキレる方なのが普通ですし、少なくとも最初の頃はとても面白いです。亀仙人の甲羅を外した悟空みたいに、専門の楔から放たれた賢者は、もう十メートルくらいジャンプしまくりです。
でも、そういう人も聖人君子ではないですし、場合によっては既に歳をとって耄碌しかけているので、しばらく経つとそんなにはジャンプできなくなります。甲羅外しっぱなしだったら、普通の暮らしですからね。それはナマってくるというものです。
内田先生が今現在どれくらいジャンプしているのか分かりませんが、語り口調は典型的に「養老孟司化」のご意見番ですから、そういうつもりで受け止めなければいけない、と思っています。
なんだか著書とは関係ない話でボロクソに言っているようですが、基本的には、わたしは内田先生の語らいは好きです。女性に対する語らいだけはめちゃくちゃオッサンで気持ち悪くて反吐が出そうですが1、物凄い核心にいきなり斬り込んでくるスタイルは読んでいて気持ちが良いです。
ただ、使い方には気をつけなければいけません。
こういう「何でも異様に断定調で、しかも結構合ってることを言う人」というのは、ヒステリー者と組み合わさると、最悪にイマジネールな合わせ鏡地獄を作り出します。断定する割に本人は言った先から忘れていたりするものですから、話半分で聞かなければいけません。本人もそういうつもりで話していて、「何でも答えを知っている人がどこかにいると思うなボケ」と考えているかと思うのですが、違ったらスイマセン。
幸いわたしは人の話を全然聞かないので、大変面白く拝読いたしました。
以下、気になるところをいくつか引用。
「父権制イデオロギー」では父権制を批判することも解体することもできない。
というのは、「父」を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」はそのとき世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、子どもたちを赤貧と無能と無力のうちにとどめておくような全能者」が存在しなかったことを知るからである。
さて、どうするか。
もちろん「子ども」たちは自ら「父」を名乗るのである。そして、思いつく限りの抑圧と無慈悲な暴力を人々に加えることによって、次に自分を殺しに来るものの到来を準備するのである。
これはマルクス主義やフェミニズムに対する批判であると同時に、現代日本は「子ども」ばかりになってしまった、という洞察です。
ちなみに、こう言われれば、どうしたってイスラームのことを考えないではいられないのですが、少なくともわたしは、イスラームというのは、「世界の中」に神様がいないことだと考えています。アッラーは世界の外部から不断に介入される(あるいは世界そのもの)2のですから、この世にそんな立派なものはいません。いなくて困ったな、はてどうするかな、と言いつつ回していくもので、多分に政治的な考え方でしょう。まぁわたし個人は、徹底的に子どもというか、狂った電動赤ちゃんみたいな人間ですが。
Evidence basedという考え方それ自体はむろん悪いことではない。けれども、evidenceで基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的に無知のかたちである。
というのは、私たちが「客観的根拠」として提示しうるものは、私たちの「手持ちの度量衡」で考量しうるものだけであり、私たちの「手持ちの度量衡」は科学と技術のそのつどの「限界」によって規程されているからである。
(・・・)
そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。
人間は自分の手で、その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」あるいは「幼体」をつくることができたものしかフルスケールで再現することができないからである。
どれほど「ろくでもない世界」に住まいしようとも、その人の周囲だけは、それがわずかな空間、わずかな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるような場を立ち上げることのできる人間だけが、「未来社会」の担い手になれる。
(・・・)
歴史は私たちに「社会を抜本的によくする方法」を採用するとだいたいろくなことにはならないということを教えてくれた。
「一気に社会的公正を実現する」ことを望んだ政治体制はどれも強制収容所か大量粛清かあるいはその両方を政策的に採用したからである。
これは「大きい物語なんて役に立たない」と言っているのではなく、物語は大きくてもいいから、とりあえず手近なところでやってみろよ、できないならやるな、というお話でしょう。抜本的に良くできなくても、ちょっとなら良くできる筈で、ちょっとできないのに丸ごと変えるなんて全然ダメ、というのは当たり前です。
個人的には、掃除だと思っています。
世界革命より部屋の掃除。
掃除というのは、始める前まで実に面倒くさいものですが、掃除してみると、例えその領域が限られたもので(普通はすごく限られている)、徹底的でもなかったとしても、素晴らしく心の見通しがよくなって、心の平静を取り戻すものです。
そして重要なことですが、土地というのは、その土地を掃除している人のものです。
オバチャンが言われもしないのに家の前を掃いていると、別にその場所はオバチャンの持ち物でも何でもないのに、何となく発言権がある気になるでしょう。人類は野山を掃除して自分の地にしたのです。掃除というのは、無ー秩序に線を入れ、人の住む地として最構成する行為です。そして実際に手を動かして掃除してみれば、気持ちの良い一方、そんなに多くの地を掃除できるわけもない、ということが分かります。そんなに多くないけど、でも十分なのです。
と、偉そうなことを言うほど真面目に掃除している訳でもなく、どちらかというといい加減な方で、全然説得力がないのですが・・・3。