暴走する正義、善意の押し売りこそ最もたちが悪い、と言われる。
まったく同感で異論もないが、それは善悪という価値判断の否定を迫るものではない。もとより、例え否定すべきだったとしても、わたしたちは価値判断から自由になれない。は既に「倫理的に」世界に介入している。
信仰は価値判断の体系なのだろうか。正義と善意に(正しく)絶望した人々は、大抵そう考えて、悪しき基準の好例として「宗教」をあげつらう。
だが、信仰は価値判断の体系では「ない」。なぜなら、それは体系立てられてはいないから。むしろ、体系の致命的な破綻こそが、信仰を真なるものにする筈だ。
それがアッラーへの絶対的帰依ということではないのか。
善悪を体系立てようとするのは人間だ。重要なのは、その不可能性を体系立ての(不可避な)試みのなかに予め含められるか、ということだ。
信仰における善悪で、最も重要なのは、結局のところ、わたしたちは善悪でものを考えたいが、その判断は覚束無い、ということだろう。正義は存在するが、どこにあるのかは知らない。
わたしが知らず、正しい使い方も分からないとしても、それは存在しないということではない。
誰かが知っている。
個人の「内面」から湧き上がる「自然な」善悪なるものを、不条理にすら映る善悪が制するのでなければ、わたしたちは正義に溺れるだろう。
手にした正義が、ココロだけに由来し、そこに一片の違和感もないなら、その銃を撃つのは少しだけ待った方が良い。その正義は多分「正しくない」。
「正しい正義」をわたしたちは知らないが、常に機能している。