池内恵さんという方は、多分ムスリムにかなり嫌われている人ではないかと思います。
オリエンタリストの中でもイスラームに対して割と辛辣な意見を語る人ですし、嫌う人がいるのは理解できます。
でも個人的には、そんなにマイナスな印象は持っていません。別段「イスラームヘイト」のような言説を吐いている訳でもないし、むしろ「素朴なツッコミ」のようなテクストが多く、共感できるものも少なくありません。変に無理して「日本的なもの」や特殊西欧近代的なものの文脈で評価し、頑張ってイスラーム礼賛しているものより、好感が持てるくらいです。
中でも新書で出ている『現代アラブの社会思想』はお勧めです。これは現代アラブ社会に蔓延する「トンデモイスラーム」を扱ったもので、ムスリムの中には「なぜ敢えてこんなマイナス面を取り上げるのか」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。それも分かるのですが、こういうトンデモが蔓延っているのは事実で、わたし自身もエジプトではウンザリするほど見聞きしました。エジプト人でも、ちょっと頭の回る人ならこの状況の「ヤバさ」は分かっていて、「宗教関係の本を買う時は気をつけた方がいい。頭のおかしい人が沢山いるから」とアドバイスしてくれる方もいます。こういう状況は、ムスリムこそ直視すべきであって、信徒なら尚更積極的に向い合って良いんじゃないか、と思っています1。
この池内さんが、どこかで「イスラーム的サッカーとは」というようなネタを書かれていました。
イスラーム的サッカーとは何でしょう。もちろん、そんなものはありはしません。イスラームに対して肯定的な地域研究系の文脈で、しばしば「イスラームは狭い宗教の枠に収まるものではなく、生活全般に関わるものだ」とされていることに対する、皮肉を込めたジョークな訳です。
「イスラームは生活全般に関わる」というのは本当なのですが、同時に、池内氏のツッコミもよくわかる。ではどこにズレがあるのだろう、というのに興味があります。
イスラームというより、本来信仰というものは、「文化」の枠に押し込まれて時々祈ったり宗教画を描いてみたり、というものではないはずです。信仰が「文化」にされてしまったのは、ネイションの偶像の元で飼い慣らされた、あるいはサバイバルの方便としてそういう姿をとらざるを得なくなった、というだけの話で、生活全般どころか軍事力を持っていたことだってちっとも珍しい話ではありません。キリスト教でも仏教でもそうでしょう。
「生活全般に関わる」というのは、何か神秘的な意味で全人生にコミットする、ということではなくて(そういう面もありますけれど)、どちらかというと身も蓋もないくらい「世俗的」な形で、信仰が関わってくる、という意味なのではないでしょうか。要するに「法的」領域、という意味です。
世俗国民国家の法も、人間生活の至るところに介入してきますが、だからといって法のレールに乗っかっていたら何も考えずに生きていける、という類ではありませんし、サッカーのルールも六法全書には載っていません。法というのは、乗っかるものではなく、ところどころに線が引いてあって、「この枠の中でやってくださいねー」みたいに区切っているだけのもので、その中にいる分にはアレコレ言ってくるものではないです。
イスラームが「生活全般に関わる」というのも、こういう身も蓋もない形でコミットする、というのが第一で、つまるところ、世俗国民国家の取り仕切っている仕事を、本来イスラームがやっていました、あるいはやるべきです、というお話なのではないでしょうか2。
ことわっておきますが、この点に「すべてへの関与」が還元できる、という意味ではありません。こういう「身も蓋もなさ」が第一にあって、もっと関わりたければ関われます、でもイヤならそこまでやらないでも別に鞭打ちとかしませんよ、という意味です。
イスラームというと、日本ではやたら戒律のことがネタにされますが、これも「この枠の中でやってくださいねー」というお話であって、綱渡りみたいな狭いレールが敷いてあって、キッチリその上を歩かないと石打ちにされる、みたいなことではないでしょう。
ブハーリーのハディースを翻訳されている牧野信也先生が『アラブ的思考様式』の中で、アラブの思考様式のアラビア語という言語から考える、という、極私的にはヨダレの出そうな楽しいお話をされていますが、この中でكلという概念に触れられていて、「概念と概念を接合子でつなぐのではなく、外からパカッと輪っかみたいなものをかぶせることで、異なるものが異なるままに統合される」というような説明をされています。これは非常に興味深い指摘で、イスラームの「厳しいユルさ」を理解する一つのヒントになるかと思うのですが、正にこの輪っかみたいな感じに、パカッとかぶせてある、というのが「生活全般に関わる」の意味なのではないかと、考えています。
逆に、この辺りがピンと来ないまま、重箱の隅をつつくみたいに「乳化剤に豚が使われているからハラーム」とかやっている強迫神経症みたいなイスラームは、どこか履き違えているんじゃないか、という印象が否めません。こういうのは敬虔さというより「甘え」であって、そんな何でもかんでもイスラーム一本でレールを敷いて貰えるほど、アッラーは甘っちょろくないんじゃないでしょうか。
日本人は、もともとこういう細かい決め事を好む傾向があり、かつイスラームが生まれ育った文化とかけ離れていることから、とりわけ決め事ゲームが暴走しやすいきらいがあるように見えます。尤も、アラブ人でもその他のボーンムスリムでも、こういうので悦に入っている人はいるので、別段日本特有の話ではないかもしれませんが。
イスラーム的サッカーなんてないです、サッカー自体も多分ハラームじゃないです、でもフーリガンがエキサイトして人殺しちゃったら、そりゃあなたキサース適用されても文句は言えませんよ、みたいなお話なのではないでしょうか。つまり、ウンザリするくらいフツーのことです3。