イスラームへの回帰―中国のムスリマたち (イスラームを知る) 松本 ますみ NIHU(人間文化研究機構)プログラムイスラーム地域研究 山川出版社 2010-06 |
現代中国におけるイスラーム復興の動きを、「女学」と呼ばれるイスラーム女学校を通じて考える一冊。中国のムスリマといっても多様ですが、扱われているのは主に西北の貧しい「回教徒」たちです。
「中国のイスラーム」という地域研究的主題についても、中国そのものについても、ほとんど知識もなく、到底紹介する技量はないのですが、貧困地区のイスラーム教徒、しかも女性、という二重にも三重にも周縁化された人々が、イスラーム言説を賢く「活用」することで、自信を回復していく姿は興味深く読むことができました。
非常に大雑把に言えば、(当然ながら)イスラームに対し否定的な中国共産党の教育に対し、古いムスリム家庭は懐疑的で、加えて偏ったイスラーム理解から来る女子教育への消極性がある、という背景に対し、イスラーム的「良妻賢母」言説を盾に教育機会を獲得していく、という構図があります。家庭に対しては「良き母としてのムスリマの養成」という言説を、(基本的に男女平等を主張する)党に対しては「国家に貢献できる人材の養成」という建前をうまく使い分けているようです。
ここで援用されている中東由来のイスラーム主義的言説の中には、
男女の生理的差異を根拠に、イスラームの名を借りた男性優位主義と権力の独占、とくに、社会的労働参画にかんしての拒否感とミソジニー(女性嫌悪)が全面的に押し出されている。似非科学としかいえないような説明にもとづいて、女性が「感情的」で「非生産的」で「男の性欲を掻き立てる存在」であるから実質上は男性よりも劣位にあり、だから家庭のなかの役割に限定すべきであるというジェンダー言説をイスラームそのものの本質のように説明している
ものもあるのですが、
以上のイスラーム主義者の女性にかかわる言説がすべて真実で守るべき理想であると、女学の女性たちがみな信じているかといえば、そうでもない。先述の女学の副校長が「中国はアラブ、中東とは違う。中東が理想的なところではないことはわかっている。ただ、思想の交流は必要だと思う」と述べるのように、(・・・)中東の厳格な女性隔離と男性の社会的活動における優先という解釈は、中国の現実にはそぐわないことは広く理解されている。男女とも外で働くのが現在では当然視されているからである。むしろ外来解釈の都合のよい箇所だけを選択して、中国のイスラームの改良と発展に生かそうとしているといってもいいだろう。
と、実体としてはそれなりに柔軟なようです1。
興味深かったのは、「女性を教育すれば子から孫と、後代にまで影響する。教育は女性が自分のために博士号をとって良い仕事を見つけるためではなく、社会をどうよくするか、ということにかかっている」という女学の校長の言葉を受けた、次の下りです。
現代中国では、博士号取得がブームである。修士、博士と上をめざそう、学問によって社会的地位の上昇をめざそうとする大学生の比率は日本の比ではない。教育に手とお金をかけられる都市の一人っ子の場合が往々にしてそうなのだが、右の発言はこの一般的傾向を批判する。一般にいう自己実現とは結局自己中心主義なのではないかと。自己中心主義は激しい競争を生み、大量の「負け組」をつくり、社会を嫉妬と猜疑心に満ちた混沌におとしいれると。
続く以下の下りも重要です。
中国の女学の女性たちは、西欧フェミニスト(中国では毛沢東主義的ジェンダー平等論者が類似のもの)にも手厳しい。それは、西欧フェミニストが主張するジェンダー差別の解消が仮に成し遂げられても、グローバリゼーションによって強化された資本主義的市場経済システムのなかでは結果的に女性はたんなる労働力に還元され、女性の被抑圧、商品化が強まるという観点に立っているからである。
「良妻賢母」言説というのは、女性を家庭に押しこめる男性優位的思想と表裏一体なわけで、手放しで肯定はできないわけですが2、一方で西欧流のフェミ言説だけでは「解放」に繋がらない、という鋭い洞察があります。イスラームの外から歪んだイスラームを批判する立場や、イスラームからナイーヴに西欧近代を攻撃する立場より、遥かに上を行っています。
現代イスラームの諸言説の中に、カルトまがいのトンデモ説が混ざっているのは事実で、特に女性の扱いについてはウンザリするようなことが時々あるのですが、これくらいの聡明さとしたたさかさがあってこそ、近代のくびきと共にイスラーム内の病理とも闘っていけるのだろう、と考えさせられました。