وَلَقَدْ خَلَقْنَا الْإِنسَانَ وَنَعْلَمُ مَا تُوَسْوِسُ بِهِ نَفْسُهُ وَنَحْنُ أَقْرَبُ إِلَيْهِ مِنْ حَبْلِ الْوَرِيدِ
本当にわれは人間を創った。そしてその魂が囁くことも知っている。われは(人間の)頚動脈よりも人間に近いのである。
إِذْ يَتَلَقَّى الْمُتَلَقِّيَانِ عَنِ الْيَمِينِ وَعَنِ الشِّمَالِ قَعِيدٌ
見よ、右側にまた左側に坐って、2人の(守護の天使の)監視者が監視する
مَا يَلْفِظُ مِن قَوْلٍ إِلَّا لَدَيْهِ رَقِيبٌ عَتِيدٌ
かれがまだ一言も言わないのに、かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。
(50:16-18)
「その魂が囁くことも知っている」という日本語は、「囁くという事実を知っている」ようにも読めるが、原文は「囁く内容」。ただ「魂がそれについて囁くところの内容」とも「魂が彼自身=人間に囁く内容」とも読める。
「(守護の天使の)監視者」とあるが、「二人の受け取り手」。また「看守」は「監視する者」。こちらは単数だが、意味的には同じものを指す。「右肩と左肩にそれぞれ一人ずつ天使がいて、右が善行、左が悪行を記録する」というものだが、「天使」という言葉はここには登場せず、ただ「二人の受け取り手」と「監視する者」という表現がある。
イスラームにおける「神の近さ」がよく現れていて個人的に好きな下りですが、この「近さ」というのは、幼い自分に経験したような気がしてなりません。眠りに落ちる前に天井の節目がグルグル回り出したり、そうした幻想の近さ、身体性と、近親的に思えます。
成長することで、身体と世界が連続しているようなグロテスクな感覚が消失するのは、対象化が洗練されたから、というより、わたしたちがわたしたちの身体に慣れてしまったからではないでしょうか。実際、病気をすると、わたしたちは「モノとしての身体(世界の一部としての身体)」が〈わたし〉と連続し、世界が否応なく〈わたし〉を侵食していくのを実感します。
「透明なるパースペクティヴの起点」として想定される主体、〈わたし〉の成立は必然的にこの「起点」に演繹されるはずですが(あたかも理神論が理性的推論一つの必然であるように)、「起点」は遡った先にあるはずのものとして宙吊りにされているにすぎず、常に身体性に汚染された形でしか〈わたし〉はあり得ません。〈わたし〉は常に既に余りにも具体的です。
「頚動脈より近い」神は、透明な起点にかぶさる身体性、透明で理性的な世界にかぶさる不条理と、同時的であるように思えます。