「望まれない出産」という言い回しがあります。この意図は十二分に分かり、かつ「出産」が「望まれた」ものであるべきなのは勿論と言う上で、なお「望まれた」子など本当にあるのか、という気がすることがあります。
正確に言えば「望みどおりの」ということで、子供が親を選べないように、親だって子供を選べません。
生まれたことだけでなく、その後いかに成長し、どういう大人になるかだって、何でも「望み」通りになるわけではないし、むしろならないことの方が多いし、大切なことに、ならなかったとしても別に親がその責任を果たせていない、ということになどなりません。教育の重要性を等閑にするわけではありませんが、教育で何でもできるかと言ったらそんなわけはないわけで、親というものは、良くも悪くも子に対してそこまで責任はないし、そこまで大したものではないのではないか、と考えるのです。
子供というのは、アッラーからの授かりもので、望もうが望むまいが、何を望んでいようが、「お前はこのガキや」と一方的に割り付けられるのです。そういう理不尽さでは、子供の親に対する「責任の無さ」と同種のものを、親も抱えているはずです。
そこを勘違いしてしまって、親という立ち位置の価値を過大評価するから、無用な責任を背負い込むのであり、また子供に対する義務感から、極端な行動に走ってしまう場合もあるのではないでしょうか。
子供というのは、言わばみんな「拾いっ子」なわけで、それをこの世で受け取っただけでもお母さんは凄いのであって、その後の成長について「ベストの選択」が出来なかったからといって、そんなものは消化試合でちょっと負けた程度の話です。
そういう前提がないと、母は過剰に子に対して負い目を負い、かつ過大な期待をかけます。一方で、子もそれを前提とし、自分の存在の全根拠が親にあるように考え、場合によっては「何で産んだんだ」という発想にもなるでしょう。
親が存在の全根拠なら、「何で産んだんだ」という「中二病」的発想はそれなりに理が通っています。確かに、生まれさえしなければ、生老病死すべての苦しみから解放されているのですから。
本当のところ、母というのは割り当てられた子を受け止めただけであって、「何で産んだんだ」なんて、母だって知りません。そんな質問は死んでからアッラーに聞けばいいでしょう。
親が子の全存在を負う、というのは、人と人=対象の二者関係の中で事態を解決しようとすることで、第三者の審級が入らない合わせ鏡の地獄に陥るリスクの潜むものです。この二者関係は、ファンタスムを形成し子を育て親に愛着を持つ原動力ともなるので、全否定するものではありませんが、これに対し第三者の審級が介入しないとしたら、非常に危険なものです。子は幻想の中でスポイルされ、ただ「何で産んだんだ」という問いを押し殺したまま生きるようになってしまうのです1。
こういうメッセージを伝える時、普通は「すべての子は(神に)望まれて生まれたのだ!」とか言うものですが、手垢に塗れて嘘くさく、かえって真意が伝わらない気がします。
むしろ「望まれた子なんて一人もいないわっ!」「母ちゃんもお前なんかイヤやったけどアッラーが言うからしゃあないって引き取ったんやっ!」くらいの方が、色々諦められて楽なように思います(笑)。