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選ぶ自由ではなく選ばれてある自由

 イスラームに惹かれ学びながらも踏ん切りがつかなかった時、エジプト人の友人と「わたしは半分ムスリマだからねー」と話していて、「いや、○○は完全にムスリマだ」と言われたことがありました。この時、自分の中での重荷がストンと落ちた気がして、非常に楽になったのをよく覚えています。憑き物が落ちたというか、ハッと視界が開けたようでした。
 ムスリマになろうかなるまいか、なりたいけどなったら大変じゃないか、そんなことでクヨクヨ悩んでいたら「いや、もうムスリマだし」とツッコまれたのです。勿論正式にはシャハーダしていなければムスリムではないのですが、彼女の指摘は、ある意味シャハーダといった形式以上に、信仰の本質を突いていたところがあります。わたしたちが神様を選ぶのではなく、選ぶ権利があるのは神様なのですから。
 信仰というもの、というよりハッとさせられパラダイムが転換するような「気付き」というのは、何かが選べると思って(思おうとして)グルグル廻っている時に、「そんなものは既に全部決定済み」と悟りを得ることの場合が多いです。本当のことはずっと前に決まっています。神様から見れば時は一つです。そういう場所に一瞬だけ立ち、主体の位置がズレるような体験というのが、非常に重要です。
 
 こういうハッとする感覚を、以前「選ぶ自由ではなく選ばれてある自由」と呼んだことがあります。
 これはまず、「選ぶ自由」というものに対する不信から始まっているわけですが、わたしたち(近代的主体)は普通、自由と言ったら「選ぶ自由」だと考えています。
 いくつかのオプションがあって、その中から自分の「意志」によって選ぶことができるから「自由」というわけです。
 ですから、自由意志と独立し自存する主体というのはセットのもので、「選ぶ自由」そして「自分で選んだのだから自分で責任を取れ=自己責任」というのは、個人というものが抽象可能で、かつ「教育」と「必要な情報」を与えれば理性により(彼または彼女なりの)正しい選択を行える、というファンタジーに裏打ちされています。
 でも本当のことを言えばそんな自由などないわけであって、わたしたちは常に具体的なコンテクストに巻き込まれて生きていて、どこから先が「自由意志」でどこからが「習慣の奴隷」「文化的偏見」なのかなど区別が付きません。そもそも、個人なるものは社会あっての個人なわけで、語らいの海の中に産み落とされるからこそ人間なのです。そんな一つの抽象として想定可能なだけの個人を妄信し、「自由意志」なのだから「自己責任」などというのは、自立の名のもとに個々人を分断し管理しようとする世俗権力のトリックにすぎません。「自由」は高い買い物であって、うっかり受けとれば権力に身売りも同然です。
 自由意志も何も、わたしたちの存在しのものが神様の恵みにすぎませんが、そういう考え方が宗教臭くて受け付けないというなら、もう少し素朴に、人間一人で生きているようでも皆の世話になっている、くらいに考えても良いでしょう。世話というのは良い意味も悪い意味も全部ひっくるめての話で、自分ひとりの力で成し遂げたように見えても決して一人の力ではないし、逆に失敗したからといって、百パーセント自己責任かといえば、そんな訳はありません。だから助け合うとか失敗した人を責めないというのは、道徳の話ではなくて、人間社会に生きる者の単なる義務です。今、アメリカの社会保険改革に反対しているような人種は、彼らこそ人の世に生きる資格のない獣であって、こいつらこそ真っ先に砂漠に捨てるべきです。
 人間、どんなに頑張ってもそう何でも思い通りにできるものではないし、うまく行ったとしても、日本的に言えば「皆様のお陰」、本当を言えば神様のお陰であって、奢りたかぶってはなりません。奢れる者がいれば、砂漠に捨てるのは正義です。
 
 話がズレましたが、この「選ぶ自由」を否定しながら、「選ばれてある自由」という言葉遣いをした時、実は最初は、それが「自由」でありかつ真の自由である、と感じていながら、なぜ「自由」と呼ばなければならないのか、自分でもよく説明できないでいました。
 身近な人に、上で書いたわたしが「もうムスリマだし」という話をされた時のことを語っていて、ふとなぜそれこそが「自由」なのか、言葉になって落ちてきました。
 「もうムスリマだし」ということは、選ぶ自由はない、選択の余地がないということで、普通に考えれば別に「自由」ではありません。
 でも体感的には、すごく「自由」になった感じ、解放された感じがあって、なぜこれが解放なのかと言えば、何かの前で逡巡してグルグル廻っている自分から解放される、ということなのです。
 なぜグルグル廻っているかといえば、本当のところ選ぶ自由などないのに選べるつもりでいたい、という、肛門的・強迫的な防衛が働いているからでしょう。「選べる」というファンタジーは快感原則的で、世界の内部に純粋な「わたし」があり、この生が永遠に続く(永遠に続くものだとしても本性の異ならない)回路が「わたし」なのだ、と思い込もうとしているということです。この思い込み自体は大切なもので、人間は基本的に、昨日と変わらない明日が来る、という前提がなければ生きていけません。
 一方で、実はちっとも選んでもいなければ、そのうち歳をとって死ぬのも真実で、何かのキッカケ(失敗!)でふとこの現実が垣間見えてしまった時に、「選ばれてある自由」を体感するのです。
 そう、正にこれは「失敗」であって、ホメオスタシスの維持を自我がし損じるのです。失敗なのですが、この失敗によってこそ、小さな死がわたしたちの生に入り込み、自我のファンタジーから主体が「解放」され、一瞬の「自由」を知るのです。
 ですから、「選ばれてある自由」を感じるのは、わたしたちが「わたし」だと思っているその場所ではなく、その下で機械のように蠢いている主体であって、この主体が一瞬語ることにより、自我の位置そのものがズレるのです。
 このズレの体験というのを時々しないと、人間はだんだん膿んできて、人生はつまらなくなるものです。
 
 ボーンムスリムと話していて、時々「日本ではムスリムはまだとても少ない、皆さんはアッラーに選ばれたのだ」といったヨイショをされることがあります。もちろん、これは文字通りには都合良いお話にすぎないのですが、「選ばれてある自由」を体感する契機をより多く授かっている、とは言えるかもしれません。
 普通に考えたら、ボーンムスリムの方が文字通り予め決まっている分「選ばれて」いるのです。でも、普通はなかなかそれを実感できません。「選ばれて」いること、すべての人間が予め圧倒的に「選ばれて」いて、うんざりするほど「合格」してしまっている、そういう気付きを得るには、「選べる」かのような幻想を通過した方が、容易になる一面があります。選べるつもりでクヨクヨ悩んでいたらもう選ばれていた、ということです。
 ですから、ボーンムスリムでも気付きがあればこの体験はできるし、「自由意志」など信じていては、どこに生まれようが気付きは得られません。
 「選ばれる」といのは、選民的な意味で言っているのではなく、「全員もう選ばれている」ということに気付く、ということです。圧倒的な不自由に気付くから自由なのです。
 
 ここから先はちょっとイスラーム贔屓な話ですが、今の日本の若い世代には「自由意志」のペテンのとばっちりを受けている人たちが沢山いて、全然自分の責任でもないものを「自己責任」の名のもとに押し付けられています。
 一方で誰かが背負わなければならない重荷があるのも事実なのですが、ただ「お前のせいだからお前背負え」と謂れもないものを背負わされたらば、これは誰だって気持ちが良くないです。
 信仰というものを、こうした不条理に理由を与えて楽にしてくれるもの、と捉えることもできますし、確かにそういう力もあるのですが、もうちょっと言えば、これだけではやっぱりダメです。それだけではただの「阿片」です。
 信仰が与えなければならないのはただの「息抜き」ではなく、そこから社会に逆流し、社会全体に対してコミットしていかなければいけないのでは、と思います。社会の一部に信仰があるのではなう、信仰の一部として社会をとらえられるくらいの力がなければ、それは本当の信仰ではないでしょう。イスラームには、そういう力がある。
 「文化活動」の一つとして世俗社会に体良く収まっている「宗教」など、まったくもって頼り甲斐がない。信仰は「文化」などではない。わたしたちの行動は具体的でなければならないし、極端な話武力だって持つべきです。「戦争はうちの領分じゃないから」などという小綺麗なものにはとても共感できません。
 世の中には綺麗なものも汚いものもあって、平和的な活動もあれば時に戦いもあります。そういう全部にわたしたちはコミットしていかなければならないし、そういう全体性があるからこそ、最も透明な信仰と言えるはずです。

kharuuf

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