国家による検閲には反対するが、企業による検閲には従う人々。
国民は国家を選べないが、社員は企業を選べる、そこに「自由意志」があるから従うのは当然、とでも言うのだろうか。
ある日本人ムスリムが、日本の企業社会をジャーヒリーヤ(イスラーム以前)の部族社会に比していたが、鋭い指摘だ。企業社会は部族神を崇め部族内の掟を最優先する社会に似ている。
国民国家と言語アイデンティティ、民族いうフィクションにも両手をあげることはできないが、部族社会よりはまだマシにすら見える。
これらこそ正に「偶像崇拝」なのだ。
自由が声高に叫ばれる時、何かきな臭いものを感じなければならない。そこには何かの不自由がある。何の「不自由を守る」ためにその自由が主張されているのか、仔細に眺めなければならない。多くの主張において、重要なのは「自由」そのものではないのだ。