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『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』中田考

イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ)
講談社 2001-12

 あまりの素晴らしさに、言葉もありません。存在を知りながら今まで読んでいなかったのが不思議でなりませんが、同時に今この時になって頁を開いた、ということにも主のはからいがあるのではないか、と思えるほどです。
 日本語で書かれたイスラームについての一般書籍として、間違いなく最高の一冊ですが、それは単に「よく書かれている」という程度の差異に由来するのではなく、一般の「イスラーム本」とは、立場も次元もまったく異なる、という意味でです。
 
 もしこの本をアラビア語で読んでいたら、これほどの衝撃は受けなかったかもしれません。アラビア語の文脈、ムスリムの文脈においては、「当たり前」な部分が沢山あり、正確には「当たり前のことを徹底して当たり前に書く」ことを極めたのがこの本だからです。
 しかし、この「当たり前」が、これほどの精度で貫かれているのを、日本語では一度も見たことがありません。それはおそらく、日本語・日本人の文脈では、この「当たり前」が著しく違和感のある不気味なものとして映らざるを得ないからでしょう。
 エジプト人やその他の国籍のムスリムと、アラビア語もしくは英語で会話していて、こういうコンテクストを前提としていることは、よくあります。その中には、日本に生まれ育った者として、当初生理的な違和感を感じていたものも多々あり、だからこそその「ザラザラした感じ」と向き合いたくて、この道を歩んできたのです。
 それだけに、一流のイスラーム研究者の方々が、日本人にとって心地よく分かりやすい部分を紹介してしまうのは分かるし、日本の「イスラーム本」のほとんどはこの類です。お断りしておきますが、これらの著者が「悪い」と言いたいのではありません。言わば「イスラームを異文化として尊重」する立場から、善意としてこういう書き方をされたのでしょう。
 しかし、本書はまったく異なります。
 後述のように、本書はイスラームを「異文化」ともしないのですが、日本語を使いながら、まるでアラブ世界のムスリムが書くかのように、イスラームの「当たり前」を正面からぶつけてきて、しかもこれが凄まじい気迫に満ちていて、瞬きする隙も与えられないほどです。
 
 「イスラームについてまったく無知なので勉強したい」という人に、わたしはこの本を薦めません。衝撃の余り、イスラームに対して敵対的になってしまうことが怖いからです。
 本当に大切な人に、イスラームについての本をムスリムとして一冊差し出すなら、この本を選びます。信頼できる友人、知性を期待できる人物にだけ、この本をonly oneとして薦めます。類書はありません。
 
 あまりに興味深いので、何回かにエントリを分けてご紹介しますが、今回はまず中田先生の本書に向かう姿勢から。

 イスラームが異文化であることは自明のようにも見える。しかし本書ではそうした立場を取らない。

 中田先生は、イスラームを「異文化」として紹介する立場を取りません。どういうことでしょうか。

 法哲学者土屋恵一郎は、インドネシア人男性と結婚してインドネシアに渡った日本人の元ゼミ生の帰国歓迎会で、豚肉入りの皿を彼女のお皿の上に渡そうとし、「イスラム教徒だから」と言って断れた体験を『ポストモダンの政治と宗教』の冒頭で紹介し(ている)

 土屋氏はここでハッとするのですが、彼はイスラームが豚肉をタブーとすることを知らなかったわけではありません。

そこには、「日本人」は変りなく「日本人」であるという固定観念があった。(中略)自分がどの世界に属しているのかという「アイデンティティー」の根拠は、つねに変化しているのだし、移動しているのだ。

イスラームに関する我々の知は、頭の中で「客観的知識」として「異文化」のカテゴリーの項目ファイルに生理され、その時点でイスラームは「我々」「日本人」とは無関係なものとなり、両者の観念連合の回路は遮断される。つまり異文化としてのイスラーム認識には、イスラームを我々の主体的問題として考える契機が欠けているのである。

 つまり、ここで扱われるのは、日本人であろうとアメリカ人であろうと、等しく対することのできるはずの普遍的メッセージとしてイスラームなのですが、「普遍的」と言ってしまうことで陥りがちな相対性の罠、文化相対主義的な「公平を期して中身のあることは何も言わない」トラップについても、十全に注意を払います。

とはいえ普遍的メッセージとしてイスラームを理解する、ということは、イスラームを、慈悲、寛容、正義等の内容空疎な抽象概念に還元することでもなければ、イスラームの中に日本文化を読み込むといったたぐいの、日本宗教の万教同根的発想の安易な折衷を意味するわけでもない。
 普遍的メッセージとしてイスラームを理解するとは、異文化と対峙する緊張感を失わず、(・・・)日本語によって「イスラームのロジック」を再構成する道を模索することを意味する。

 多くの日本人にとって、「異文化」としてイスラームに対することは、一つのヴェールとなっているわけですが、一方でムスリムが多数派を占める国でも、同じ「文化的ヴェール」が逆転した形で現れます。

イスラームと自文化の同一視もまたイスラームのメッセージの普遍性を隠蔽する別種のヴェールである。

特定の時代の特定の地域のイスラーム文化でしかないものが、その文化の担い手には、あたかも普遍的に妥当するイスラームであるかのように映る、という現象が生ずる。

 エジプトで嫌というほど味わいましたが、こうした現象はムスリムが多数派の多くの国と地域で見られるでしょう(しかも皆自信たっぷりなのがたちが悪い)。
 
 ここで掲げられた目標は、あまりに壮大なものかと思われるかもしれませんが、驚くべきことに、本書ではこれが貫徹されています。本当に日本語で、本当のイスラームを叩きつけてくれているのです。
 これほどの激烈さと優しさに満ちた本があるでしょうか。
 
 中田先生は、ネット上は、過激原理主義者であるかのような誹謗中傷を受けているのを見受けます(「原理主義」的でない宗教とは一体何なのかサッパリわかりませんが)。今あらためて、こうした浅薄な中傷を試みる輩に心頭に発する怒りを感じますし、機会が与えられれば自らの手で粛清したいとすら思いますが、一方でこうした「拒絶反応」を生むのも理解できないわけではありません。本当に正面から斬り込んでくる知性と、まともにぶつかりあう優しさというものを、人生の中で学んでこなかったのでしょう(そうした機会を与えない日本の冷たい社会にも多いに責がありますが)。
 
 本書を紹介してくれたのは、ムスリマの友人(友人と呼ばせてください)です。
 わたしの古い友達が「良い友達とは良い本を紹介してくれる人のことだ」という名言を吐いたことがありますが、彼女には感謝してもし切れないものがあります。しかし頭を垂れるのではなく、الحمد الله讃えはアッラーにのみ返し、その元で平等な婢同士として、わたしが役に立てる機会が与えられるのを待っておきます。
 
 初回エントリの最後として、中田先生がひかれている預言者ムハンマドの言葉を孫引きさせて頂きます。

イスラームは風変わりなものとして始まり、始まったときと同じように風変わりなものに戻る。風変わりなものにこそ幸いあれ。

kharuuf

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kharuuf

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