我ながら、奇妙極まりない人生を歩んできて、今も歩んでいる。
こんなラグビーボールのような転がり方をして、よく今でも生きていると思う。
やりたいことは何でもやっているし、大体のことは最後には思い通りにしているし、これからもできると思う。
「前向き」とか「ポジティヴシンキング」ではない。
全然明るくないし、むしろ不安で一杯。
いつも不安で、叫びだしそう。
本当のところ、人が不安になるのは、可能性の余りの大きさ故ではないだろうか。
やる気になれば、なんでもできてしまう。
だから問題なのだ。
だから、みんな分かりやすい枠を作っておきたいのだろう。
枠があれば、限界があれば、それを基準に家を建て、静かに暮らすことができる。
わたしも枠が欲しくて、枠を探して旅をしているけれど、未だに枠は見つからない。
人が恐れるのは、人生の無限ぶり、あまりの自分の「有能さ」ではないだろうか。
恐れると怖いから、恐れたくない。
恐れても、何にもならない。
なぜ何かが「できる」ことが恐ろしいのかと言ったら、それが自分の力だと勘違いしているからだ。
この漲るパワーと可能性は、すべて神様のエネルギーが注入された結果にすぎない。
わたしは神様の乗り物だ。
だから、いかに枠がなくても、いかに可能性に満ち溢れていても、恐れる必要はない。
全部、神様から貰って、神様に帰っていくだけなのだ。
そう思うと、少しだけ不安が収まる。
何を成し遂げても、誉れは神様へ。
だから、不安にならず、スロットルは開いたままで大丈夫。
あぁ、神様、わたしが走るのは、走れてしまうからで、走って走って、早くあなたのところに行きたいからです。
そしてわたしが走れてしまうのは、きっとあなたも、わたしに早く来て欲しいからですよね。
大丈夫、わたしはまだまだ走れます。