外山恒一さんに久し振りにお会いしてきました。
集まっていた面々は、都知事選の頃に比べると大分ツブがそろってきた印象。雑多に集まった中から、かなり絞り込んできたようです。
彼の周囲にいる人間については、当然ながらすべての人に共感できるわけではないのですが、外山さんは改めて頭の良い人だな、と感じます。「悪の正しい使い方」を知っている人です。
イデオロギーで動く人間というのは信用できない。一方で、世俗的打算や権力ゲームだけで動く人間にも、何かを預けようという気持ちにはなれない。
確か内田樹さんがどこかで「日本の左派はメッセージの交換に終始し、右派はメタメッセージの応酬を行っている。だからかみ合わない」みたいなことを書かれていた気がするのですが、正確に言えばいずれか一方だけを交換するということもまた不可能なわけで、素朴な左翼の醜悪さというのは、期せずして発してしまっているメタメッセージについて「おぼこく」、そこに責任を持とうとしない、あるいは気づきすらしない、ということに由来しているでしょう。
この点で、「極左から極右へ」転向した外山さんという人物は、少なくともわたしにとっては、信用できる匂いのする人物です。これが実現したのも、左派運動家たちの謀略による投獄経験があったからで、当人にとってはお気の毒様ではありますが、結果としてはプラスに働いたように見えます。
イデオロギーでないとしたら、外山恒一を動かしているのは何でしょう。一つには世俗的打算があるでしょう。それがないとしたら、まったくつまらない人物です。しかし、打算だけにしては、彼の言動はあまりに「おバカ」すぎる。彼と相対した時に漂ってくるのは、美意識と深く静かな憎悪です。そう、憎悪。直接接した時の外山さんは、物静かでシャイで、実に可愛らしい人物なのですが、優しそうな目の奥に、透明な憎悪が基調低音のように静かに息づいています。
当日の彼の発言で面白かったことの一つは、「成功した革命というのは、必ず途中から軍が加わっている。軍が志願制の状況下では、右翼革命しか革命はあり得ない」というもの。
とても重要な着眼点で、逆に言えば、徴兵性には左派にとっても「革命的」要素が孕まれていると言えます。
徴兵制というのは一見体制にとって好都合なようで、一歩間違うと要らないものまで軍に取り込んでしまう危険もあります。実際、女性でも徴兵されるイスラエルにあって、ムスリムにはドゥルーズ派を除いて徴兵義務がありません。
徴兵制から志願制へ、という流れは、何となく反戦志向に迎するかのようなイメージがありますが、貧しい者に兵役を押し付け、銃後に安んずる者が戦いを煽る、格差を固定化する方向でもあります。「志願」という名の元に、判断は「自己責任」へと名目上回付され、ポストモダン的支配が進行する、というカラクリです(君は志願して軍に入ったのだろう?)。ジョシュア・キーの『イラク―米軍脱走兵、真実の告発』でも、貧しさゆえ事実上軍役につくしか道のない者を、リクルーターたちがあの手この手の甘い話で釣っていく様がよく描かれています(彼らの貧しさにイラク人が驚いている!)。
米国には徴兵制の復活を主張する「左派」の政治家もいます。彼らは主に社会的格差との関連でこの主張をカかがげているのでしょうが、同時に徴兵制には「革命的」要素も孕まれていると言えます。
まったく話は変わりますが、わたしは外山氏の私設秘書であるS嬢がかなり好きです。
「猫を飼っていないのに、部屋に帰ったら猫がいた。この猫はシュレディンガーの猫だ。だからわたしは誰かの妄想の産物でもなく、神になってしまう」という発言(はしょりすぎ)を聞いて、「あぁ、この子とは話ができる!」と確信しました1。しかも「卵産みたい」という言葉も聞け、シンクロニシティーに近いものまで感じます。
でももっと凄かったのは、彼女の友人の「じゃぁ産んだ卵暖めてあげる」という言葉です。
Sさん、彼女は本当に素晴らしい友達です。一生大事にしなければいけません。漫才デビューする時は、必ず彼女をツッコミに採用して下さい。
素晴らしい。自分に足りなかったのが何か、天啓のように悟りました。卵を暖めてくれる人です。そんな人はいないので、自分で暖めます。
家に帰るまでが遠足で、孵化させるまでが産卵です。