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想像的言語

 規則に忠実に様式化された書き言葉、例えば所謂候文や「硬い文章」、アラビア語におけるフスハー、が象徴的なものだとしたら、カジュアルな話し言葉は想像的、と言いたくなるが、言語の統合的自己イメージという点では、カギカッコの中に書かれた言葉のようなものが、より相応しいかもしれない。書かれた台詞のように話す人はいないし、時々「リアルで」台詞のように話す人に出会うと、わたしたちはどこか奇異なちぐはぐとした印象を受けるが、それでいてなお、カギカッコの中には「わたしたちはこう話していたい」「こう話しているはず」なイメージが投影されている。イメージ的統合という意味で、カギカッコの言葉と話し言葉は連続的であり、それは表音文字が言語を忠実に書き取っているかのような幻想と共犯関係にある。連続的であるがゆえ、というよりはむしろ、そこに連続性を見出す幻想自体が、言語の想像的統合を成り立たせている。
 問題はこの後であり、その統合イメージが理想に過ぎないとして、では「本当に話されている言葉」の方を向けば「真の言語」が発見されるかというと、そうではないだろう。何かが見つかるとしたら、まるで秩序を欠きコンテクストに埋没した乱雑な音の行き交う姿であり、日本語という統合すら怪しい。どこからどこまでが一つの言語であるのか、もちろん内的に決定などできるわけがないが、そればかりか、どこまでが言語かすら曖昧模糊としている。なおかつ、ぼんやりとした「言語っぽい」集合があるのかというと、それもまたイメージである。「一つの言語」が政治的歴史的であるのは言うまでもないが、政治性を取り払った後に連続的な何かが取り出されるかのような幻想こそが、その歴史性を問われなければならない。現実的にある(ない)のはそれ自体が自律的に運動し、あらゆる人間性から無縁に自己増殖するウィルス的な言語だろう。わたしたちが直接に知覚できない、そのウィルス的言語こそが言語そのものだ。
 と、このようなことをある人物と話していて、「真の言語」として連想されるものには二種類あることに気がついた。一つはアラビア語におけるフスハーであるとか、立派な文学者が書いた流麗な文章であるとか、様式に沿ってきちんと構成された論文であるとか、NHKのアナウンサーが使う日本語であるとか、なんであれ権威ある「立派な言語」を、「真の言語」として思いつく方向。もう一つは、人々が日常的に使う言語、文字にされることのない言語、識字能力を持たない人々すら使っていると想定される言語、そうしたものを「真の言語」という言葉からイメージする方向。前者の「真の言語」をカトリック的だとするなら、後者はプロテスタント的だ。
 実際、現在の言語ナショナリズムはプロテスタンティズムと密接に結びついている。ヘブライ語、古典ギリシャ語、ラテン語といった「正式の言語」によって綴られていた聖典=正典を積極的に民衆的諸言語へと翻訳しようとしたのがプロテスタントであり、結果、上の二つの「真の言語」で言えば後者の側、大衆の中に生き生きと宿るかのような「生きた言語」が聖的なものと接近し、日のあたる場所に現れ、そればかりか死者たちの言葉が宿す権威を退けて、我こそが本当の言葉、と語るようになった。その結果、各方言が自立する個として主張し1、言語共同体により大衆はまとまり、「一つの言語」というフィクションの元に統合像を獲得し、欧州におけるネイション、そして領域国民国家概念の成立において大きな役割を果たした。
 「ここではないどこか」が神聖視されるのではなく、「ここ」こそが聖なる場所である、とする人間主義もこれとパラレルな関係にある。もちろん、「どこか」より一層「ここ」こそがどこだかわからない場所だ。今日のわたしたち自身がそのファンタジーの内側にいるからこそ、「ここ」としてここで名指される、大衆の中にある「生きた言語」というフィクションについて、その起源性を問うことは難しい。「言葉は生き物」などとナイーヴに語られる、あの想像上の統合像のことだ。一方、大衆から離れた「死んだ言語」を虚構として暴き立てることは誰にでもできるし、そうした子どもっぽい仕草が「自由と民主主義」を守る英雄譚の再演の如く、神話としてのエンターテイメントの中で繰り返されている。王様は裸と叫んだり、墓石を蹴飛ばして「こんなものはただの石だ」と叫ぶのは子どもにだけかろうじて許され、時には子どもにも許されない戯けた振る舞いであるに過ぎないが、倒錯化したポストモダン的状況において、人々はそれを「馬鹿げたもの」と知りつつ(知っていると示しつつ)同時に楽しむ。むしろ「これはお話だから」と一応のことわりを入れつつ、その荒唐無稽なはずの「お話」に熱中することが、市民的良識とされている。ついでに言うなら「子ども」なるものが「小さな人間」としてではなくそれ自体一つのまとまりとしてイメージ化されたのも、プロテスタンティズム的転倒と平行的であり、今現在なお、子どもの聖別化は進行中である。墓石を聖なるものと「本当に」崇めるのが滑稽なら、墓石を蹴飛ばすのも同様に滑稽である。言うまでもなく、カトリシズム的言語とプロテスタンティズム的言語、どちらも「真の言語」ではない。「真の言語」はウィルス的な別の秩序により律動し、わたしたちはその秩序を理解しない。
 カトリシズム的言語とプロテスタンティズム的言語、仮に前者を韻文的とするなら後者は散文的だ。韻文が象徴化された様式と、象徴言語の内部に古の英雄が築いたと伝えられる言語の外部=現実への通路を礎とするなら、散文が寄って立つのは了解である。韻文はわからなくても良いが(「良い」けれどわからない、という韻文は多いにあってよい)、散文はわからないといけない。正確には、誰かわかる人がいないといけないし、わたしではない誰かならわかるのであろう、と人々が想像できないといけない。時々部分的にわからない箇所があっても、それは知識の不足であるとか、ちょっとした「作者のミス」に依るものである、と信じられる程度には、全体として了解可能でなければならない。ウィルス的で知覚不能な「真の言語」が徹底的に「わからない」ものであるにも関わらず、プロテスタント化された言語共同体において、「真の言語」は大衆の理解に対し開かれていないといけない。
 この状況において、「真の言語」に(非)接近するには、一つには韻文的、カトリシズム的なものを、イメージ的な統合に対してぶつける、というアプローチがある。今一つには、想像的言語、散文、了解の内部から統合像の破れを探っていく方法がある。実際的には、両者は混合して行い得るし、了解の流れに音としての言語を差し挟むことも可能だろう。ただより一層、想像的言語の連続性を揺るがすのは、意味と了解により外的世界を囲繞するが如く振る舞う言語それ自体により、包囲がまったく不完全であり、そればかりか包囲していると思っていたものにむしろ包囲されている現実を暴き立てる道ではないか。わたしたちは、何をどういう順番でどれくらい語るのも自由である、とされているが、その実、「向こう」にあるはずの世界における連続性の幻想を侵さず補強すべく訓練されている。まず、わたしたち自身が何をどういう順番でどれくらい語っているのか知らなければならない。その上で、世界の破れや破れとしての自己ではなく、世界そのものに対して写実的に臨まなければならない。世界が破れているのだ。

  1. もちろん「方言」としてのそれも遡及的に発見される []
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