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筋肉があるのにお腹がぽっこりしてしまう人への耳寄り情報

 遠大な迂回から始めるが、筋肉があるのにお腹がぽっこりしてしまうというのは、腹圧の問題であって、腹圧というのはガンガンベンチを上げていればつくというものではない。圧なのだから封じ込める圧力隔壁みたいなものが要る。爆弾だって丸くて固いもので火薬を覆っているから爆発するのであり、これがなければ火薬の燃焼速度を飛散速度が上回ってしまって燃え切らない(とても原始的な爆弾の話だけれど)。覆いとか殻は構造で支えるもので、橋だってアーチとか吊橋は強いけど平べったいただのガーダー橋では素人が見ても真ん中が構造的に弱いし大きなものは作れない。人で言えば骨格であり、関節一つひとつのポジションが正確に取れることで初めて圧力を高められる。そのポジションを取らせるには柔軟性も確かにある程度要るが、筋というのはただ引き延ばせば良いというものではなく、ダルダルに伸びただけではかえって怪我が増えるし、実際猿手の人は怪我しやすい。闇雲にストレッチしても意味がないばかりか害になる場合もある。神経が必要だ。よく「耳をピクピク動かせる人」を例に取るのだけれど、わたしは耳を動かせないが、だからといって耳を動かす筋肉がまったくないかと言えば、そんな筈がない。同じ人間なのだから、めちゃくちゃ細くて非力ではあっても筋くらいはある。しかし神経がない、脳内マップに位置づけられていないから動かせない。動かさないから太くならない。
 この神経、脳内マップを鍛える方法というのはあるのだけれど、直接的に行うのは、目に見えないものだからとても難しい。形なり動作なり目に見えるものにして間接的に学習するが、この時外見や大きな動きにとらわれていると内部の力がいつまで経っても習得できない。武術のメソッドとはそういうもので、ヨガとか気功とかもたぶん元々はこれをやっているのではないかと思う(それだけではないだろうし、玉石混淆だろう)。こうしたメソッドでは先生の言うことはとりあえず黙って聞くより他にない。自分にわからない、自分の脳内マップにない世界に入っていこうとするのだから、今わかることに落とし込んで理解などしようとしては永遠に門前で足踏みすることになる。しかし足を踏み入れ歩いていけば、少なくとも前には進む。

 こんなことは筋道立てて考えれば当たり前の話で、別段力説するようなものでもないのだけれど、この筋道というもの自体に、どこか「わからないものをそのままに受け止める」要素が既に入り込んでいる。
 また聞きなので違ったら申し訳ないが、プラトンの『メノン』の中でソクラテスがその辺の庭師のおっさんか何かを呼んで、二倍の面積の正方形を作図させる。「辺の長さを二倍にしてはどうか」「これじゃあ四倍だ」とか、学習マンガみたいなアプローチで誘導していくうちに、学のないおっさんが見事面積倍の正方形を描く。この時、知性は内部に発見される、「思い出される」ものである。
 これはデカルトが『方法序説』の冒頭で言っているbon sens(良識、と訳されている)みたいなもので(たぶん)、人の内に元々あってdiscoverされるのを待っている何か、または何かに向けてdiscoverさせるべく誘導していく枠組みである。合理主義みたいなものはここから出てくるのであって、それこそ筋道としてはこれは正しい。わたしたちはボーッと星空を眺めて帰納的に外部の法則を発見するのではない。
 が、しかし、ソクラテスもデカルトもきちんと言っていないことがある(言っているかもしれない)。ソクラテスは庭師のおっさんを呼んで二倍の面積の正方形を作図させるが、なぜ庭師のおっさんはソクラテスに呼ばれて来たのか。「正方形なんかどうでもいいわ、クソジジイ」とか言ってタバコ吸いながらスマホでまとめブログとか読んでいなかったのはなぜなのか。ソクラテスが偉い人だったからである。正確には、ソクラテスの偉さが庭師にも共有されていたからだ。つまりそこには権威関係があった。柄谷風に言えば教える関係だ(違う言い方だったかもしれない)。
 理性があろうがあるまいが、人はどうでもいいヤツの話は聞かない。先生の話を黙って聞くのは、その人が先生で、かつ先生に対する敬意であるとか、逆らったら殺されるとか、そういう力関係があるからだ。親子だって同じであり、赤ちゃんは外にある情報を粛々と学習するわけではないし、「自分の頭で考えて」よく納得してから身につけるわけではない。
 基本的に、よく考えて納得したものなど身につかない。頭ごなしにやるから身になる。もう十分に小賢しく固い頭になってしまって、それでもなお学習する時、納得というものがある程度重要になる。先生の話がわからなくても、「この先生は偉いのだ」ということに納得していれば黙って話を聞くし、頭ごなしを受け入れる。納得というのは、納得できないものを黙って飲むためだけに役に立つ。

 ところで今わたしは、お腹ぽっこりの話から始めてソクラテスと庭師(庭師ではなかったかもしれない)の方に流れていったが、二つの話は別段必然的に結びつくわけではなく、前半と後半では全然違う話題だ。前半からメタ的に後半の話が出てきたようにも思うが、正確にこれが抽象化と言えるのかは怪しいし、前半の話から全然違う教訓めいたものを引き出すことも可能だろう。前半の内部の筋道とか、後半の内部の要旨であるとか、そういうところはある程度頭で考えて辿ることができる。しかし前半と後半の結びつきはほとんど偶発的で、しかしたぶん、なにか底流で必然を含んでいるものだ。それが何なのかはまだわからない。書き続けることでこれを析出していくのが、文学の運動だと考えている。重要なのは続けることだ。一回の実験では結果は出ない。
 ちなみにわたしはこの話を、友人を迎えに行こうと化粧をしながら思いついたので、とりあえず書き留めてさっさと出かける。
 ここでのわたし自身の具体的状況や現在性が引力であり、文学はこれの切断、離脱を含んでいなければならないが、最初に引力がなければ切断もクソもない。しかしもう約束の時間が迫っているので詳しく書くことはできない。

kharuuf

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