例えば普通に会話している中で「それはつまり○○ということですよね!」といった台詞を差し挟むのにはかなりの慎重さが要求される、ということは普通のコミュニケーション能力を持った人間なら誰でもわかるだろう。目上の人間相手の時はとりわけ気をつけないといけない。
完全にNGというわけではもちろんない。話を聞く中で「わたしはただボーッと聞き流しているわけではありませんよ、頭を使って聞いていますよ」ということを示すサインとして、これに類する台詞を入れることはある。
要は程度とタイミングで、絶妙な間合いでたまに気の利いたことを言う分には「こいつなかなかわかってるな」と思わせられるだろうが、そうでない場合には単に生意気や失礼になるし、自信がないなら余計なことは言わない方が身のためだろう。1
新しいことを学ぶ時や少数者の理解といった場面でも似たことが言える。
この頃はとにかく「理解をすすめる」みたいな言い方をしていれば許されるといったイージーな風潮があるので、人びとは丸暗記知識みたいに「○○とは○○」とわかりやすい式を覚えて、「ボクわかってます!」をアピールしようとする。
百歩譲って丸暗記知識は致し方ないとしよう。特に身近に接することもない人びとについて、本当にリアルな「理解」など望むべくもない。知らなくても特に困らない。そんなものについて「理解」を要求する方が無理なのだから、社会的に死なない程度の丸暗記知識でやり過ごそうというのも無理もない。ただそれならば「つまり○○ということですね!」的なアピールは無用だ。無用というより、完全に出過ぎている。あなたのそれは理解ではなく、単に誰かの言っていた知識の受け売りかネットで見た話をそのまま声高に叫んでいるだけだからだ。心の中にそっとしまって十年くらい熟成させても遅くない。
そんな紋切型のつまらない知識で武装して、さも理解しているかのように当事者に近づく者たちも無礼以外の何者でもない。教室でやたらに「わかってまーす」「オレ知ってるもーん」的にはしゃいでいる痛い子らと変わらない。
「理解」などというものは、ちょっと学校で教えたり行政がテコ入れしたくらいで「すすめ」られるものではない。
世間で「理解」と間違って受け取られているものは、安い抽象化や安易な一般化にすぎない。「○○は○○」と十把一絡げ式に簡単な数式にでもしておけば話が早くて楽だという、要するに横着の賜物でしかない。
「理解」というのは世界の実相に迫るものであり、そこに一般化も抽象化もない。一つひとつの事象の一回性に寄り添うより他にない。
あなたに子どもがいたとして、その子どもが不慮の事故で亡くなった時に「また作ればいいじゃない」という人がいたら、それは頭がどうかしているだろう。
子どもだろうがペットの猫だろうが、一般化すればいくらでも代わりがいるかもしれないが、そういうものが子どもではないし、猫でもない。
世界はそういう一つひとつのものでできていて、小さな取るに足りない個物が少しずつ少しずつ動き生き笑ったり泣いたりしてできあがっている。
そういうものを一網打尽にして何が「理解」か。
まず「理解」の果てしない困難さを知らないといけない。
わからない時に人はどうするのか。まず黙る。そして見る。見るというのはとても難しいことだ。
間違っても「それはつまり○○ということですよね!」などと安易な「理解」アピールをすることではない。
ついでのことを付言しておけば、「それはつまり○○ということですよね!」などと振り回すことが本当に理解だと思ってしまっている、コミュニケーション能力の著しく低い人びとが存在する。子どもなら仕方がないかもしれないが、大人になってもできない人が稀にいる。機械仕掛けのような人だ。
そういう人には家から出てこないで頂きたいが、少なくともこれだけわかりやすく書いていれば「理解」して貰えるのではないか、と期待している。
わからなくていい。別に罪ではない。黙れ。