記述可能である、という幻想が、記述主体を記述の外部に温存する。
「お前たちは会社のコストである」などと「統計学的超自我」に則り語る者は、いかなる場所にいるのか。それをコストとして記述可能である、という想定が彼ら自身の場所を特権化している。記述空間という幻想が記述行為を隠蔽しているのである。
より広く、科学と呼ばれるものが持つ「抑圧という意味でも何も知ろうとしない」態度。「科学は、原因としての真理について、何も知ろうとしない」。
知ろうとしないからこその傍若無人な態度が許される。問題は、これを振りかざす「主体と思しきもの」を見つけてその「罪」を突きつけたところで、彼らには悪びれるところもないことだ。抑圧という意味でも、とはこのことである。彼らは何も抑圧などしていない。何一つ「負い目」などないのだ。
そればかりか、彼らは為すべき仕事を粛々とこなす疲れを知らぬ機械である。満たされぬ欲求などない。欲望は宙吊りにされず、むき出しの享楽がこれでもかと見せつけられる。
前提を疑う問いはすべて不問に付され、存在にすら気づかれない。突きつけられれば「だって、そうじゃん」と屈託のない笑顔を浮かべるばかりである。
(たぶん、この世界で本当に許されない唯一のものは「怒り」である。怒りは何らかの「正しさ」、あるいは正しさへの情熱と深く結びついている。この「正しさ」は彼らの考える正しさ、妥当性とも言うべき世界内の一項としての正しさとはまったく異なり、記述内容としては往々にして正しくない。記述としての正しさを別問題として「正しさ」が叫ばれることを「怒り」と呼ぶのだ。記述内容の外部、記述行為をむき出しにしようとする行いは、この世界では唯一、認容されない)
この種のいわば、「発達障害的」な洗練された正しさに対するカウンターとして荒ぶっているのがまた、ネトウヨ的反動というのも皮肉である。彼らの掲げる正しさは、一見すると暴虐のようで、記述の前提を排除したアルゴリズム的正しさである点で、「科学的」正しさの陰画にしかなっていない。
それにしても、今やこれを「幼稚」などと糾弾できるのだろうか?
もしかすると端的に、こんどこそ本当に、近代が終了しているのかもしれない。
わたし個人はもちろん、このような「恥知らず」な世界に嫌悪感を覚えはするが、それが単なる旧世代の郷愁に過ぎないことを証す術はない。
それを認めてなお、手を汚し「老害」を振りまくことこそ倫理的選択とも言えるが、いかなる見返りも未来も約束されないことは肝に銘じなければいけない。
シンギュラリティなど、機械より先に人間が越えているではないか。
彼らにとっては、ここが本当に天国なのだ。
心ある悪人たちは、静かに居心地の良い地獄に帰るべきかもしれない。