ステロタイプでものを見るなと言っても、人はステロタイプでものを見るのです。
最初に言っておきますが、開き直って良いという意味ではありませんよ? そういうのは論外で、論外というのは文字通り論の外なんだから話なんかしても仕方ありません。さっさと半殺しにして沈めて、その先のお話だけやっています。
それなりに仲良しで頭も良い子でも、こっちをうっかり何らかのステロタイプで見ちゃうことってのはあります(もちろん逆もある)。そういう時は「まぁそれステロタイプだけどね~」とかイジってやったりします。そういう相手は大体良い子なので「うわああ!ごめん!」とかなるのが面白いから(笑)。これは当然、一定の信頼関係がある中でのじゃれ合いですよ。
PCの問題って正にコレですけど、ステロタイプいかん!と言ったところで、言葉狩りのNGワードリストみたいやり方して上手く行くわけがありません。人はそういう紋切型から逃げることはできないし、さらに言ってしまえば、ステロタイプにも大体一分の理があるんですよ。「全部それで言っちゃえば嘘になるけど、部分的にはまあまあうまいこと言えてる」というところがあったりする。根も葉もないかというと、ちょろ毛くらいは出ていたりする。それくらいのものでしょう。
繰り返しますが、開き直って良いという意味ではありませんよ? そういうの見かけたら、ちゃんとコンクリ詰めにして沈めて下さいよ?
ステロタイプを肯定もできないし否定し切ることもできない。ならどうするのかと言えば、そもそもその軸で考えているのが間違っている訳でしょ。
お互いの距離感とか共通感覚、信頼関係、それだけでしょ。「こいつの言うことだから許す」みたいのは遍くあるんですよ。
人はびっくりするくらい「誰が言ったか」で考えるもので、「論理的思考」とかガチで信じちゃってるディベート好きの可哀想な人たちを除けば、人類の圧倒的大多数は人(ニン)でものを見るのです。それが是か非かという以前に、人類がそういうやり方でずっとやって来て、それがそこそこ上手く行っていたからそうなっているのでしょう。
その「誰が言ったか」も、身近な信頼できる人から辿っていって「○○が良い人と言っていた☓☓の尊敬している△△さんの言うことだから、きっと正しいのだろう」みたいにわらしべ長者方式で考えるでしょう。そういうネットワーク的な思考が人類の基本で、何事も「知っている」ことより「知っている人を知っている」ことが大事。そういう風に人類は作られているのでしょう。
ですから、ステロタイプも何も、「誰が言ったか」でしかないんですよ。社会的評価の高い人なら何を言っても許される、とかいう意味じゃないですよ。そんなものは全然関係ない。自分と相手の関係。あるいは、身近なところから辿れる関係。
偏見とか何とかそういうお話には、「わたし」(または家族や友人)に対する偏見と、「偏見っぽい言動一般」というのは分けて考える必要があります。
例えばわたしが在日で、そのことを理由で直接的に何らかのネガティヴな扱いを受けることと、まったく知らない有名人がテレビで「差別発言」をするのは違います。
何が違うかと言えば、両方ともこっちからは向こうが見えていますが、後者の場合は向こうからはこっちが見えていません。そういう関係ってあります。別の場所で相手の話をしたらダメというのを書きましたが(アラこっちから言及しちゃいました)、この「こっちからは見えているけどあっちの視界には入っていない」関係。テレビの芸能人とかね。
お互いに見えている関係については、上に書いた通り、間柄とかニンでしかないです。そしてそっちが基本。
問題は、後者についてはそんなやり方でやってられない、ということですよね。だって向こうはこっちを知らないんだし、向こうを知ってる人は無数にいるんだから、関係性とかなんとか言ってられない。それで仕方ないから、PC的なお約束コードを作って縛っていきましょう、ということでしょう。物事極端に単純化して、○○って言ったからアウト、みたいな。
この仕組みは実にバカバカしいのですが、そもそもテレビに出て皆んなが見ています、なんて状況は人類史的に異常事態な訳で、ナチュラルなソリューションなんかまだないのです。一昔前まで、そんなものは預言者様とか王侯貴族とか、そんな存在でしかなかったし、この人達は「差別」されていますし生き物の種類が違いますから、一般視聴者の意見なんか聞かないのです。聞いていたら預言者なんかやってられません。
今テレビに出ているのは、預言者様じゃなくてお笑い芸人とかですよね。この人達はお気の毒ですけれど、今のところ、実にブサイクなPC的システムの犠牲になって頂くより他にない。「そんなこと言ってるからテレビがつまらなくなる」と言われても、もうそういう状況でも立場でもないでしょう。それがやりたいなら、視聴者一人ひとりの顔と名前を覚えて年賀状くらい出してからやって下さい。そうすれば色々大目に見てもらえますよ。そっちからこっちが見えない関係はお友達でもなんでもないんですから、ニンとか関係性とかでは見てもらえません。関係ないんだから。
今、「お互いに見える関係」と「一方的に見ている関係」をわけて考えましょう、と言いましたが、実際にはそれほどくっきりわかれていない訳ですね。芸能人のことをお友達か何かと勘違いしちゃう人がいるでしょう。この人達はアホなのかというと、まあアホですけれど、でも芸能人の方も「友達感覚で見てもらう」「あたかもお互いに見える関係であるかの如く振る舞う」ことで、そのスター性を成り立たせている訳です。恋愛みたいなものですね。そこには幻想がある。だからビジネスになるし、見ているこっちも気持ち良くなれる。これは良い悪いではないですよ。そういう「有り様」ってのがあるんですから。
そういう越境性があるからか、逆にテレビ的なものをお茶の間に逆輸入しちゃう人もいらっしゃるわけですね。テレビでやってるからいいだろう、って、お笑い芸人みたいに振る舞って、あの人達はお金もらって厳しい競争を勝ち抜いて叩かれて叩かれてやってるんですから、一緒の訳がありません。そういうアホ大学生みたいのもさっさとコンクリ詰めにしたら良いですね。
一方で、テレビ的存在、一方向的関係に限って仕方なく運用しているブサイクなシステム、狭義のPC的なもの、言葉狩り的なものを、お茶の間に持ってこられても困るんですよ。そこは顔が見えるんですから。ちゃんと関係できるんですから。まず関係を作りましょう、せっかく相互的なんだからニンで運用しましょう、ということです。
お笑い芸人の真似して無遠慮に人を「イジる」人を批判する左がかった人に限って、杓子定規のお題目みたいなものまで顔の見える関係に持ってきたりするでしょう。その二つはある面では一緒のことですからね。一方的関係専用のものを、相互的関係に持ち込んではいけません。逆もしかり。
ただ、繰り返しますが、ここの境目がふわっとしていることで成り立っているものでもあるんですよね。だからこの「越境禁止」というのもガチガチのものではないです。それは無理でしょう。時々越えてくる。越えてくる度にぽこぽこ叩く。せいぜいそれくらいじゃないですか。
境界を絶対にしようと思えば、それこそ国境の壁みたいな発想で、まぁただただ効率が悪いだけで人生の彩りも失われるでしょうね。あんまり度が過ぎる時に個別に引っ叩けばいいんです。もちろん、境界が要らないという意味ではありません。
相互的関係と一方的関係は別。前者が基本。そこではニンで見る。後者は悲惨なシステムで当面やっていって下さい。お気の毒ね。