前進守備って言葉がありますよね。あれ、ぴったり来るなあ、と今日気づきました。
わたしは野球ができません。プロ野球も見ません。子どもの頃に三角ベースとかやったのが唯一で、わたしの野球に関する知識はほぼすべて漫画から来ています。
野球漫画は良いですよね。古いところでは『キャプテン』、高校生編までの『メジャー』も良かったし、『ONE OUTS』みたいな変則ものも好きです(あれが野球漫画なのかどうかは意見のわかれるところでしょうが)。
プロ野球を鑑賞する趣味はないし、見ても何をやっているのかさっぱりわからないのですが(何せテレビの野球では、漫画みたいに大げさに球が曲がったり、選手たちの心の声が聞こえたりしないのです)、野球をめぐる文化というのは嫌いではありません。応援のリズムとか、サッカーと違ってなんだか垢抜けないじゃないですか(ごめんなさい)。昭和的な情緒があるでしょう。わたし自身はその中にいませんが、味わい深いなあ、と思って遠くから眺めています。
そういう風に、自分はやらないけれど外から見て微笑んでいるものが、いろいろあります。わたしは子どもがいませんが、子どものいる家は良いものだな、と思うし、着物は着られませんが着物を着ている人は素敵だなあ、と思うし、暴走族ではないけれどアホで味わいがあって良いなあ、と思います(ごめんなさい)。
ちなみに、大きい音を出したり他人に迷惑をかけることをする集団というのは、まあアウトローと言えばアウトローなのですが、そういうローのアウトにいる人たちの方が、かえって色んな制約とか決まりを抱えているものです。あるお笑い芸人が「サラリーマンみたいに縛られた生き方をしたくなくて芸人になったのに、先輩は絶対だし礼儀もうるさいし、よっぽど縛られている」と話されていましたが、ローの周縁に行くと、真ん中の方より不分明でややこしいローに縛られる、という傾向はあるでしょうね。そういうところで、不良は人になっていくのだと思います。
ついでのお話しをもう少し広げますと、無法者は無法者で組織の掟とか義理とかに縛られる、みたいなローカルな秩序というのがあちこちにあるのです。規模の小さい秩序。会社だって部活だってそうでしょう。そうした掟は、「世間一般」に照らし合わせてみるとバカバカしいものとか不合理なものとかもあるのですが、一つの法でやっていけなかった者が別の法で生きるという可能性を残しますし、小規模で顔の見える関係の中で人として最低限の常識を叩き込んでくれる、というメリットはあるでしょう。ことが大きくならないように内内で収めようとする傾向があるし、ある程度はトライ&エラーが許される。口来るさい一方で面倒見は良い。そもそも、ほとんどの人類は基本的にそういうショボいローカルな秩序の中で鍛えられて、局所最適化して今日という日まで生きてきたのです。
そういうものが、この頃は本当に軽んじられていますね。何かというと「出るとこ出ましょう」とことが大きくなる。バカッター的な現象やら、ちょっと粗相があるとネットにさらされるような、一のものが百になる場面をよく目にします。裁判所だって地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と上がっていくのに、いきなり全国スケールです。あろうことか「欧米では」「世界の常識では」とか言い出す人まで現れて、千日前のあたりで細々やってるのに、いきなりニューヨークと同じやり方を押し付けられます。
そういうスケールの大きな世界というのも、あるにはあるでしょう。世界をまたにかけるビジネスマンなんかは、まあ商売ですから、欧米流だの世界標準だの馴染んでおかないと恥をかくのでしょうね。
でもね、人類の圧倒的大多数はそういう生き方をしていないんですよ。人はそういう作りにはなっていないのです。
いじめの問題なんかもですね、この頃は「さっさと刑事事件にしてしまえ」という意見があります。わたしも半分くらいは賛成するところがあります。おいおい、なんぼなんでもこれはやりすぎやろ、というのもありますからね。この辺は塩梅で、引き際とか見極めの世界ですが、「いじめは暴行」という考えにも、半分くらいは賛成ですよ。
でも残り半分くらいは、そんなやり方でええんかい、とも思うわけです。
昔の学生運動では大学自治ということが大切にされていて、まあわたしはたまたま通っていた大学が特殊だったので身近でも未だに大学自治云々ということが語られていたのですが、それも「内内のことは内で」という、系を区切ってなるべく局所で処理しよう、という考えですね。繰り返しますが、そういうやり方がいつも良いとは言いませんよ。弊害は多いにあるでしょう。でもまずは地方裁判所に行きましょうよ、と思うのです。
そこの壁を取っ払ってしまうと、もういきなり国家権力です。やくざも商売できません。統一ルールで一気に処理されて、そこで「アカン」判定を受けたら、もう流れ着くコミュニティも何もありません。サーチライトが隅々まで照らし監視カメラがあちこちに光るフラット世界です。
潜水艦だって、中はたくさん間仕切りがあって、一か所穴が開いてもすぐに沈んだりしない、正確に言えば沈んだまま浮いてこない、なんてことにならないように作ってるでしょう。戦艦武蔵も、そんな感じで間仕切りがたくさんあったそうです(でも装甲板の継ぎ目を魚雷で叩かれて沈められちゃったみたいですね)。
家の作りなんかも、もうだいぶ以前から、間仕切りが少ないのが流行りですよね。ばばーんと広いリビングで、カウンターキッチンとかで。あれ、冷暖房代とかかかって大変なんですけどね。
昔の左翼の人とかは、もしかするとこういうフラットで見通しが良い世界を目指していたのかもしれませんね。多分、団塊世代くらいまでは、その上の因習にまみれた土着的なものへの反抗、みたいな構図があったのではないかと思います(もちろんそこに還元はできないし、新左翼の運動自体、どこか土着的というか、右派的な要素があったと思います)。もっと時代を下って、小泉改革あたりでも、日本型経営みたいのが批判されていましたよね。見通しが悪くて因習にまみれたものはぶっ倒せ、的な志向性です。
これは非常に良くわかるのです。
決まりは色々面倒くさくてイノベーションとか妨げるっぽいし、やる気を削ぐししょうもないコミュニケーションコストを食うじゃないですか。
やっぱり自由が一番、ね。
わたし自身、めちゃくちゃやって勝手気ままに生きてきた人間ですし、細かい決めごととか嫌いだし、朝は起きられないし、語学は「通じればええやろ!」派だし、プログラムは「動けばええやろ!」派だし(良くない)、家に帰ってきたら速攻ブラジャー外しますからね。よくまあ、会社勤めとかできていたものだと思います。
ただ不幸なのは、アウトローはアウトローなりの掟、みたいのを叩き込まれる機会を逃してしまったことでしょうね。そういうものにすら反発していたし、そこをぼこぼこに殴って教えてくれるほどの環境ではなかったし、たぶんわたしの若い頃で既に絶滅しかけていたのでしょう。あとはまあ、運が良かったのか悪かったのか、死にませんでした。
おかげでだいぶ歳をとってから「アホはアホなりに抑えないとアカンところがある」というのを(高い授業料で)学ばされる結果になりました。
まあわたしの場合、アウトローというよりアウトサイダーだったのかもしれませんね。だいぶ人間になったつもりですが、未だいろいろと抜けているところがあると思います。
と、またひどく脱線しましたが、自由を尊重するというか、「そんなん言われてもでけへんもんはでけへん!」的な気分は非常にわかるのですが、「でけへん」からこそ、有象無象のコミュニティを渡り歩いて、まあギリやっていけそうな掟くらいは身に着けておかないと大変なことになりますよ、と思うのです。
まあそんなことは今時の若い方は誰でもご存じみたいなので、これは若い方に向けてのお話しではなく、このフラット世界を作り上げてしまった世代とか、それを享受しながら疑問を抱かない人に対して言っています。つまり、「ちゃんとしなあかんよ」などという、今時ではまったく無用のお説教ではなく、「一つのルールに照らし合わせてちゃんとしていないともう完全アウト、なのはめっちゃ怖い話やし、そもそもこの仕組みってあんまちゃんとしてないんちゃう?」というお話です。
有象無象があって、それぞれの掟で先輩に敬語くらい使えるようになる、とかでいいんじゃないですかね。そこで、小さく生きていけばいいじゃないですか。
最近相撲界の不祥事が話題ですよね。貴乃花親方が警察に通報したのを叩く人、擁護する人。この擁護する人たちは、ここで言うところのフラット世界側、「いじめを刑事問題に」側の考えで支持していた人もいらっしゃるようですが、どうも貴乃花親方の意図はそういうところともまた違う、第三の方向のぶっ飛びだったらしい、と知ってしおしおになっているような印象です。個人的には、あのぶっ飛びもこう、一見右派思想に見えて、戦後民主主義の枠内で遡及的に構築されたカルト的伝統ファンタジーという感じがして、味わい深いとも思いますが(支持はしません)。
それはともかく、すぐに警察呼ぶのは、この話の流れですとアカンですね。中の秩序がしっかりしているならそれでやるのが一番ですし、それがだめだとしても、相撲取りでしょ? どうしても許せん、ということがあるなら、ずしずし歩いて行って張り手一発、鉄拳制裁ですよ。そこはこう、漢を見せて欲しいわけですよ。パターナルにやって頂きたいのですよ。
さらにまた話がズレますが、とりわけ武道系などのルールを見ている人にわかりやすいように改変する動きは本当に本当にゴミですね。相撲の場合、興業的要素があるのでなかなか微妙ですが。柔道なんかボロボロでしょ。その点、剣道はかなり頑張っています。ショー的要素が少ないので、「やる人間」の価値を比較的守れているのでしょう。
うちの師匠の名言に「金メダルのヤツがどんだけ凄いか一番わかってるのは銀メダルのヤツだ」というのがあるのですが、スポーツに限らず絵だって音楽だって、本当に値打ちがわかるのは「やってるもん」だけです。それもどんどん細分化されレベルが上がって、金メダルみたいな世界になったら、せいぜい銀メダルのヤツくらいにしか本当の値打ちなんてわからないのです。スキージャンプみたいに数字で出るものですと、素人が見ても「こっちが飛んだ」とかわかるわけですが、シンクロナイズドスイミングとかになったら、何が基準なのかもよくわかりません。
それでよいのです。
絵が何のためにあるか。それは絵を描く人間のためですよ。
「やってるもん」がその世界で価値を決めればいいんです。
外野は黙ってればいいの。おとなしく座って見ていればいいの。見せてもらえるだけ御の字なのよ。
それをね、「世界発信」「国際理解」だの、よそもんとかよそさまとか、まるっきりの門外漢とか、そういう人たちにもわかり良くしよう、なんてのがそもそもの間違いです。そこでわかり良くしたいのは誰だかわかりますか。やりもしないのに商売とか名誉にしたがる人たちですよ。オリンピックで盛り上げたい政治家とか、ジャパニメーションとかほざいてる文化庁の偉い人とか、そういう人たちです。
スポーツ文化や武道文化がお嫌いのオタク文化圏の方々も、この辺の感覚ならわかるんじゃないですか。見てもいないヤツらががたがた言うな!というね。
言わせちゃいけませんよ、がたがた。
「やってるもん」がわかればいいの。
外野は、だぁってろ。
と、例によって脱線に脱線を重ねて、もう線路がどこだかもわからないところまで来てしまいましたが、何の話でしたっけ。
そうそう、前進守備ですね。
これ、バッターがあんまり飛ばさないだろうと思って、近いところでボールをとってババンとゲッツーとってやろう、みたいな時にやるやつですよね。漫画ではそういう感じでした。
でもこれ、うっかりカキーンと大きく飛ばされちゃうと、一貫の終わりですよね。普通ならフライでアウトにできたものを、ヒットにされちゃう。そうですよね? 漫画ではそういう感じでした。
で、これはただの自分語りなのですが、わたしってそういうところがあるなあ、と思ったのです。もう、ここで、決める!みたいな、前に出てガッと取って終わりにしようとするんですけど、そういう時に限って普段ヘボやヤツがきれいに打っちゃったりしてね。青空に白球が見事な放物線を描いちゃってね。あれよあれよという間にランニングホームランですよ。
そういうのは、改めないといけません。
あんまり深くてもいけないけど、浅くてもいけない。中くらい。
たぶんね、漫画と違って本物の野球は、そんな感じでやるんじゃないかと思います。
という、お話でした。