何度も書いていますが、多文化主義とか宗教間対話みたいな話が出てくると、「んん?」と思う訳です。
最初にお断りしておきますが、そうした試みをすすめる人々、その意図について邪推するものではないし、おおよその実際的着地点として、それくらいしかないのだろう、ということは了解しております。それはそれで、大いにやっていただいたら良いかと思います。
まあ言いたいのは月並みなことなのですが、多文化とか多宗教とか言う、その言葉はどこ場所から発せられているのか、という問題です。あたかも諸ー文化なるものを俯瞰する目線から眺めているようですが、当然ながらわたしたちは常に何らかの「文化」に巻き込まれている訳で、地べたの上の目線からしかものは言えません。勿論それだけ言っていても始まらないので、一旦括弧に入れて話をしましょう、ということな訳ですが、その辺の矛盾に無自覚なまま上澄みだけすくい取ってお題目にされているケースがままあるように感じるのです。
「文化」でなくて「宗教」とか言ってみれば、これはもう、「無宗教」「世俗」だと外部にいるかのような錯覚があるでしょう。
そもそもの話として、「文化」「宗教」という抽象的なカテゴリがあり、その中に「仏教」「キリスト教」のような項目が並んでいる、そうしたリスト的思考法自体、人類がかなり最近になって獲得したもので、今現在に至ってなお、大半の人類はそれほど巧みに使いこなせている訳ではありません。おそらく識字能力による視覚的思考の獲得と並行的に習得されたものではないかと考えています(読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から)。
ですから「宗教」などという括り自体が馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいのですが、そこは一旦乗るとして、わたしたちはまっさらなタブラ・ラサ的土台の上に、「宗教」のスロットがあいていて、そこに「仏教」とか「キリスト教」を差し込む、という作りになっている訳ではありません。以前に宗教の誕生という皮肉めいたものを書きましたが、「宗教」がいつ生まれたかと言えば、「世俗」の生まれた時です。世俗概念があって初めて宗教概念が括りだされる訳で、それ以前は単に、身の回りの大雑把な信念や行為と一体のものでしかなく、そもそもが信仰は言語と渾然一体、象徴的な網の目とモノやイメージとの間にある齟齬から必然的に導かれるものです。これほど一方的に巻き込まれてしまうものを、上から見下ろして諸宗教のように考えるのは、あまりに自らの言語や「宗教性」に不誠実なものかと思います。
そして仮に「宗教」という枠を受入れたところで、例えばイスラームならそれは単に付き従き傅くということで、当事者にとってはイブラーヒームの信仰、ということでしかありません。その枠組の中で思考し語ること自体が信仰なのですから、そこを括弧に入れて宗教ー間と言ってしまった途端、信仰そのものの内実はどこかに置いてきて、まったく空疎な話にしかならないのではないでしょうか。
信仰というのは単に行うもので、別段思想信条でも信念体系でもありません。中に入って、それからゆっくり考えたらいいんじゃないですか、という程度のもので、もっと言えば、気づいた時には既に中に入っているのです。それを自覚的に語り思想化していく、ということもあるでしょうし、別にしないでも構いません。普通はしないでしょう。そういう当たり前の、何でもないものとして見なければ、信仰について何も理解などできる訳がありません。
ということを、それこそ当然の帰結として考えてはいるのですが、多文化・多宗教のような思想に対して疑義を挟むとなると、単なるナイーヴな反動のようなものばかりが出てきて、それはそれで大いにうんざりしているのです。
信仰にしたところで、まともに考えれば「原理主義的」であるより他にないに決まっているのですが、それを言葉にして対外的に言ってしまうことはパフォーマティヴに違う効果をもたらしてしまうもので、誰が読んで何を感じるのか、そういう想像力を働かさないと言えば言うほど自縄自縛、傍から見ても迷惑にしかなりません。加えて言えば、「原理主義的」であることの意味すらわからず、世に言われるところの方の原理主義的に振る舞う人々が無視できないスケールでいるわけで、実際問題としてはそっちの方が更に迷惑でどうしようもありません。彼らを馬鹿というのは簡単で、実際馬鹿なのですが、そう言ったところで馬鹿はいるし、馬鹿にも(原理上!)「人権」はありますし、力も持っています。そういう状況を見渡して、果たして誰に何を言うのが「正解」なのか、優先順位をつけた上でよくよく考えてみないといけません。
これはPCやフェミの問題も一緒で、PCへの疑義にしたところで、一つの正義が隈なく覆うスターリニズム的世界は如何なものか、という話だから発展性があるのであって、ただただ「PCは息苦しいからクソ」みたいなことを喚いてもネトウヨと変わりません。アンチフェミにしたところで、フェミの補完としてこそ成り立つものの筈ですが(フェミがなければアンチもない)、フェミ以前みたいな言説ばかりが目についてげっそりするのです。
そういう訳で、この辺の一番楽しい「上級編」のお話は、極めて限られた人々の間でのお楽しみでしかなく、まぁせいぜいのところこういう場所にこっそり書き付けておく程度のことしかできません。対外的には、PCでも多文化主義でも、お題目としてとりあえず言っておけばよろしいのではないでしょうか。基本、話などしても無駄です(話をしても無駄だから文化間対話でもしときましょう!)。
とはいえ、あまりそういう、ちゃんとした大人の義務に忠実であろうという気持ちもないので、極力逃げ回って美味しいところだけ美味しい人たちと話す方向で、わたし個人としては生きていますが。