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疑えない死後、存在しない死後

 死後というのは、ある意味、疑うことのできないものだ。
 というのも、わたしたちが象徴の星座に位置づけられたもの、つまり名である以上、この次元においては、増えることも減ることもなく、生まれることも死ぬこともないからだ。
 にも関わらず、死という現象自体をわたしたちは観察できる。正確には、死を知っている主体が存在する。
 動物は死を知らないのではなく、死という現象を観察する主体を持たないだけだ。彼らもまた、同種または別の生き物の死を目撃し、そこに何らかの意味(もう死んでいるから動かない、等々)を見出すことはできるだろうが、死を文節する言語構造を持っていない。持っていないというのは、個々の動物がその「内部」に言語構造を備えていない、という意味ではなく(そういう意味でも持っていないだろうが)、死を文節する語らいにより呼び出されていない、という意味だ。わたしたちは、語らいに振り向いた。そしてその語らいは、<わたし>より前から、死を「知って」いる。
 「わたしたちは、死すべきものとして呼び出された」というのは、死を「知って」いる語らいに対し、勝手に振り向いてしまった、ということだ。そして振り向いた「後」から遡及すると、「呼び出された」としか語ることができない。
 ところが、この語らい自体は、不死のものだ。不死であるからこそ、死が文節される。「不滅もの」がないとしたら、死は敢えて文節されない。何かが変化せずに残っている。つまり、「ない」こと自体を示すもの、象徴的なもの、ONとOFFが明滅できる「場」そのもの。この言語のうちに、名はあり、わたしたちは名として呼び出され、名は死なない。言わば、名は「神の筆の元で初めより在り、在り続ける」。名は時間の外部にある。
 死を知っているからこそ、それは言語であるのに、言語自体は不滅である。その隙間に、死後という概念は必ず入り込む。
 死後は、死の知と同時的に「書かれて」いる。

 問題は、死後がサンボリックではなくイマジネールな領域に読み替えられる時だ。
 サンボリックものは、必ずイマジネールな再読解を招く。イメージに置換されない言葉はない。言葉は、口に出されたその瞬間から、イメージに汚染されはじめる。
 想像的な領域にあるのは、いつも「わかりやすい」一方、「わかったようでわからない」ものだ(「金の山」)。死後についても、幾多のイメージが作り出された。すべてのイメージをはぎ取られた「死後」そのもの、というものを、わたしたちは理解できるのだろうか。かなり難しいだろう。純粋に象徴的な死後とは、死によって分節されながら、死の影響を受けないものだからだ。
 例えば、正三角形というものを考えてみる。ほとんどの人は、正三角形とは何か、知っている。ほぼ正確な定義を述べられる人も、少数派ではないだろう。一方、厳密に言えば、わたしたちは正三角形というものを一度も見たことがない。子供の教科書には三角の図形が描かれているが、到底正確とは言い難く、そもそも三角形そのものが二次元の水準のものなのだから、紙の上にインクを乗せて表現できるわけがない。わたしたちが見たすべての「正三角形」は、正三角形の不正確なrepresentationにすぎない。そして非常に重要なことに、おそらくこの不正確な表現がなければ、多くの人にとって正三角形を理解することは極めて困難であろう、ということだ(まったく不可能というわけではない)。
 このような形で、死後を理解することはできるだろうか。わたしたちは死後の概念を、汚染されたイメージを通じて知るが、そこから純粋な死後概念を習得するのは、正三角形に比べると難しい。そのため、多くの信仰で語られる死後イメージは、益と同時に害をももたらしてきた。
 注意すべきなのは、この害を取り除こうとした時に、「これは比喩なのだから、文字通りに受け取ってはならない」とは言えない、ということだ。ここでの問題は、死後が言語そのものに予め書き込まれているにも関わらず、実際の言語(イマジネールな言語)とは、常に想像的な言葉しか使えない、という点にある。「表現」の向こうに、「意味」はない。
 そもそもの始まりから、死後については、間違ったことしか口にできないのだ。

 「この世界」に正三角形が「ない」ように、イマジネールな領域に死後は存在しない。
 ではもし、現実的な領域で死後について何がしか語ろうとするなら、何が言えるのだろうか。
 そこには死がない。あるいは、すべてが死である。文節の外部に死は存在しない。
 ウィルスは不死だろうか。あるいは、始めから生きも死にもしないのだろうか。
 もちろん、このような死を思考することはできないし、想像的な死後、存在しない死後、虚飾に塗れた死後のイメージに耽溺するのも誤りだ。だから死後については、ただ(内容のないまま!)信じ、サジダ(平伏)するしかない。

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