Categories: メモ雑記

社会と愛の話をしよう

 テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗「正論のまかり通る」時代で書いてきた意味の張り付いた精神病的世界(⇔神経症的近代)という意味で、世界は固定的な物質と化していっています。スターリニズム的ディストピア、「科学的社会主義」が地上を覆おうとしています。
 精神医療の世界では1952年のクロルプロマジンの発見以降、次第に薬物療法が支配的となり、精神医学の化学への還元が推し進められました。今やどこの町医者でも気軽にSSRI等が処方され、その問題点も各所で指摘されてきてはいますが、大きな流れが「化学化」にあることは間違いありません。同時にDSMやICDに象徴されるアメリカ流の操作的診断が一般化し、かつての病因論的視点はますます背景に遠のいています。
 これらに合理がないと言うつもりは全くありませんし、かつて見られた属人的で恣意的な判断が廃されることで、マクロな規模で奏効しているからこそ、このような方法が一般化しているのでしょう。ただ、操作的診断が前に立てられたその段階では、そこで捨象されてしまう諸々の観点(病因論的視点や精神医療的アプローチ、精神分析など)に対する、押し殺すような気持ちが必ずあった筈で、また、実際に直に患者さんたちと接する現場の方々で、精神医療が一切無効などと考えている人はいないでしょう。問題は、こうした流れの上澄みの結果のところだけが独り歩きし、「一般市民」の世界観の方へと逆流し、内面化されている、ということです。
 ナイーヴな器質還元論や「脳科学」の隆盛などがこれです。文学や哲学、あるいは心理学や精神分析といった語らいの持つ恣意性や「非科学性」を廃すれば、その向こうに明晰判明な唯物的世界が立ち現れるだろう、という素朴な世界観です。繰り返しますが、現場で手を動かしている人々にとっては、そんな見方が単純素朴にまかり通らることなどことは自明でしょう。安い新書やテレビ解説的な言説が、大衆のものの見方を汚染していっているのです。殆どの人はそれほど勤勉でも徹底的でもありませんから、身に余る大きな話は三十文字くらいの結論だけにまとめて、サッと取り込んでおきたいのです(本当はそんな「身に余る話」には口を出さないに限るのですが、その話は一旦横においておきます)。
 勿論、「人民」の側にも止むに止まれぬ事情があります。わたしは「メンヘル」を振り回してプロフィールに掲げるような種類の人間が大嫌いですが、今や「病気」くらい言わなければ誰も納得してくれないのです。集中力がなくて人の話を聞いていられないとして、単にやる気のない無能と見做されればクビが飛びますが、ADHDです、と言っておけば、首の皮一枚くらいはつなげる可能性が残るのです。ただの根性なしではなく可哀想な病気の人として大目に見て頂ける僅かなチャンスが覗くのです(見てもらえないことも多々あるでしょうが)。
 これらはかつての精神論・根性論支配へのカウンターとして現れてきた現象であって、一概に否定することもできません。丁度、前近代的・ムラ的な支配へのカウンターとして現れたかつての左翼的世界観が、その後PCとしてディストピアを形作っているのと並行的です。良かれと思ってやったこと、正義と信じて進めてきたことが、新たな形の地獄を作り出しているのです。その世界では、先天的器質疾患だとか脳の検査で発見されるような「病気」でもなければ、誰も許して貰えないのです。遠からぬうちに、遺伝子から脳から調べ上げられた挙句、AIが診断を下す世界が現実化することでしょう。
 かつてナチス的・優生学的思想に対抗しようとした人々は、むしろ病気化と戦っていました。同性愛者の権利運動にせよ、以前は「罪」「病気」として治療・矯正の対象にされていたものを、個人の主体に属するものとして奪い返し、文字通りノーマライズ=正常化したのです。我々は病気ではない、だから淘汰される謂れはない、ということです。
(余談ながら、それでも属人的・属性的な性質として語られている一面はあります。つまり「同性愛者」だけが同性愛的行為を行う、ということです。本当のことを言えば、存在するのは「同性愛者」ではなく「同性愛行為」です。自称ヘテロでも「同性愛行為」を行う可能性など幾らでもありますし、別段それほど奇矯な話でもありません。単に社会的にスティグマ化されているので公に出ないだけの話です)
 今やこの立場は逆転し、淘汰されない為には病気になるしかありません。同性愛とは別の話ですが、性同一性障害の制度化などが好例です。性同一性障害者(「障害者」!)は適切な「治療」を受けて身体を「正常化」し、「本来の社会的性別・戸籍」を獲得するには精神科医のハンコを貰ってくる必要があります。勿論こうした制度の背景には、同性愛者と異なり医学的対処が必要であり、また戸籍の問題など社会的にクリアすべき課題がある、という点があります。黙っていれば(大抵は)それと分からない同性愛者と異なり、何か「言い訳」が必要なのです。頭を下げて「病気」にして頂く必要があるのです。ですから、当事者個々のレベルでは言わば方便として使われてきた面もあります。やむにやまれない状況の生み出した折衷的解決策ということです。
 ところがこれが一旦定着した今では、頭からこのロジックを信じる人々も少なくありませんし、更に言えば「別の病気」(おそらく統合失調症または妄想性パーソナリティ障害)の人々がこのストーリーに乗って「病気化」を獲得しようとする例すら見られます(余談として、顔を見ればすぐに分かるので、そうした意味では精神医療的なスクリーニングは機能してはいるのですが)。これも勿論、操作的診断の一般化と一緒で、本邦で言えば2003年の所謂「特例法」(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律)制定に至るまでは、法律制度の間で何とか対処しようとする多くの人々の奮闘があった筈で、言わば「酸いも甘いも噛み分け」た上での制度化だったに違いありませんが、一旦システム化するとそうした背景はたちまち不可視化されていくのです。
(これも余談ですが、この現象については、ジェンダー/セクシュアリティの問題もさることながら、醜形恐怖や摂食障害とも通じる身体違和を基本に考える必要があると考えています。勿論身体違和とジェンダー/セクシュアリティが通底しているのは言うまでもありませんが、「心の性別」といった模式的視点で理解しきれるものではありません。「心の性別」言説は、それこそ折衷的に世の中を納得される為に作り出されたストーリーだと考えるべきで、正にそれ故にこそ一旦はその物語に乗るべきではありますが、そこで話は終わりません。現実は常に圧倒的に複雑です)

 システムを否定するのではありません。何度も色々なところで書いていますが、システムのない社会などあり得ません。しかしシステムには常に外部があって、それらの諸々を噛み締めた上で成り立っているのです。結果の上澄みだけを安易に内面化してしまうことが危険なのです。既に「解けた」問題の「解答」だけが世界に直接に剥き出しになっている、幼児的で精神病的な世界が当たり前になり、地上を席巻しています。一旦上澄みだけが先取りされると、背景が忘れ去られて結果が暴走します。
 病気でなければ許されない、が暴走すれば、病気だから仕方ない、病気だから受けいれられるのが当たり前、になります。「少数者」だから仕方がない、が独り歩きすると、救済措置が特権に化けます。更にその結果として、「アファーマティブ叩き」のような反動、「ヘテロ中流白人男性クリスチャンの鬱屈」の爆発、といった現象が巻き起こります。どちらの陣営も上澄みだけで物事を見ていて、色々噛み殺してやっと絞り出した答えの部分だけを叩き合っています。そこで叩かれているのは誰なのか。理想気体のようなそんな人間が本当に実在するのか。そんなことは考えず、ただただ誰も彼もがいるのかいないのかわかりもしないものを殴り合っているのです。
 この攻撃はインターネット越しに、遠隔操作のミサイルの打ち合いのように展開します。誰も「敵」の顔など知りません。物理の顔を晒している「有名人」すら、伝えられるのは断片的な文言と相貌だけ。それを狙って、安全で狭いコミュニティの塹壕に隠れながら、誰もがクリック一つでミサイルを打ち込みます。軍事費もかかりません。「言葉だけの殴り合い」なら「テロ」より幾らかマシでしょうか。ヘイトデモや一部の粗暴なカウンターが美しいとは言いませんが、まだ身を切り手を動かしているだけ、現実に触れる機会がない訳でもありません。そこで直接見て聞いて触れたものが確かなら、その身を賭け金に差し出して戦うこともまた人生かもしれません。いずれ彼らもまた、そこにすら至らないナイーヴな内面化の犠牲者たちの氷山の一角に過ぎません。水面下で敵の顔も見えないまま知りもしない者を打っている大衆が実体なのです。

 なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
 付け焼き刃の「脳科学」ファン、素朴器質還元論に踊らされた「病気」ファン、メンヘル振りかざし、「受け入れて厨」、それらの「特権」を叩く人々、どれもこれも欠けているのは、近代的主体の決断という次元です。本来、わたしたちの住む近代的社会において、一応のお約束として主体の決断という次元が仮構されていました。予め言っておきますが、これはあくまでフィクションに過ぎません。ナイーヴな物質主義者の言う通り、わたしたちは遺伝と脳内物質の奴隷です。しかしその結果として現出する近代的主体、その次元とは、言葉の次元であり、約束事の世界です。これは勿論、世界の総べてではありませんが、わたしたちが言葉で社会を作っている以上、一応のところはそこで話を付けましょう、というお約束があったのです。つまり社会です。このお約束が暴走して世界そのものと取り違えられても問題ですが(=PCの横暴)、一方でまた、約束をすべて投げ打ってヤケクソになって良いわけでもないのです。
 たまたま最近、外山恒一氏と個人的に対話する機会があり、その席で彼が、上で述べたような広義の「精神疾患」について、岸田秀の「本能の壊れた動物」という指摘が総べてであり、すべてが後天的・社会的事象だ、といったことを話していました。彼はこの分野の専門家でも当事者でも何でもないので、当然と言えば当然ですが、申し訳ありませんが、わたしはこの考えそれ自体には与しません。残念ながら、わたしたちは物質の奴隷であり、遺伝と脳内物質、性ホルモンに大きく支配されています。しかしそういう問題ではないのです。支配された結果として現象する、「このわたし」「語るわたし」、その次元で社会というものができているのです。化学がわたしたちに対して影響しているとかしていないとか、そんな議論ではないのです。はっきり言えば、影響しているに決まっています。ただ、そんなことは全く重要ではなく、結果として出てきた「わたし」、社会の中で生まれてきた「わたし」、人と人との間に発生した「わたし」、話もしない赤ん坊にわたしたちの両親が語りかけることで不思議なことに語りだしてしまった「わたし」、この次元が象徴の世界、言葉の世界、社会である、と、そういう話をしているのです。
 皆、社会を忘れて、物質を振りかざしています。物質はあります。しかし社会もあるのです。
 「わたしたち」というこの言葉、これが棲むのは社会です。社会の話をしようではありませんか。
 あなたが何かの病気を抱えていて、それが遺伝的形質に因ったり、化学的作用や性ホルモンに影響されていると、そういうことはあるかもしれません。勿論結構です。あなたが病気だろうが病気であるまいが、そんなことに何一つ恥じるところはないし、大体そんなところに興味はありません。そうした諸々を踏まえた上で、わたしの前にあなたがいる。わたしは、あなたの、話が聞きたいのです。
 あなたが、あなたの名において、あなた自身を賭け金として、あなたとわたしの関係の中で今、語る、その言葉、それがわたしにとってのあなたの総べてですし、その言葉に、わたしは、わたし自身を晒し、わたしの名と顔を差し出し、わたしの人生の時間と生命の欠片をかけて、向き合うのです。向き合わせて欲しいのです。
 社会があるから、愛があるのです。

 わたしがわたしであるのは、わたしのせいではありません。
 遺伝とか偶然生まれついた環境とか化学物質とかホルモンとか、そういうものがわたしを作っているのでしょう。わたしたちは徹頭徹尾受け身で他律的な存在です。中学の教科書か何かにあった死ぬほどベタで恥ずかしい話をするなら、I was bornです。わたしたちは受動態で生を受けています。芥川の河童ではないのですから、誰も選んでこの世になど生まれていないのです。
 わたしがわたしであるのは、わたしの決断の為ではありません。何も選んでなどいないし、選ぶチャンスなどなかったし、偶然の連続でわたしがあります。そうしたものへの敬意というのはまず、必要です。ここが欠けている人たちも沢山います。偶々お金のある高学歴の両親の元に生まれ、恵まれた環境で育った結果成功したに過ぎないのに、総べてが自分の努力の結果のような顔をして、「弱者」たちを平気で踏みにじる人々です。彼らには感謝と謙虚さが足りない。わたしたちはすべて、わたしたち自身にはどうすることもできないものの結果であり、その結果が良いものであれ悪いものであれ、ここまで導いてくれた人々、偶然、運命、ざっくり言えば神に感謝しなければいけません(最後のものはわたし個人の信仰によるので、不愉快なら飛ばして下さい)。良いことが起こっても悪いことが起こっても、そうした圧倒的な力に対しひれ伏し、受け入れるより他にありません。大体、人間万事塞翁が馬ですから、良いことに見えたものが悪く結果することなど、ありふれています。良いとか悪いとか、そんなところで物事を見てはいけません。大きな力、わからないものに敬意を持たないといけないのです。
 そこを大前提として、まだ続きがあります。
 そうした圧倒的などうしようもない諸々の結果として、わたしがいます。この「わたし」です。そのわたしは言わば、預かり知らないことの責任者です。自分で選んだ訳でもないことの結果だけを突きつけられ、責任を取らされるのです。全くもって理不尽です。しかしその理不尽が社会であり、人生なのです。それもまた、一つの約束事です。
 すぐに先回りして封じて起きますが、これも約束事であり、約束事の後ろには多くの「酸いも甘いも」があるのです。それらを無視して良いわけではありません。そっちもある。こっちもある。両方併せて初めて一つです。
 車を運転していて、たまたま飛び出してきた子どもをはねてしまっても、運転者には責任が発生します。たとえ法的な責任を免れたとしても、彼または彼女がそれでスキップして駆け出すことはないでしょう。まったくの運命の悪戯ですが、わたしたちは、わたしたちの預かり知らないもの、決断などしていなかったことについて、「お前が決めたのだ」と責任を押し付けられるのです。わたしたちは皆、気がついたらこの世界にいたのですが、遡及的に決断したことにされるし、それを引き受けることで、初めて人間になるのです。どう考えても河童ではないのに、河童と言う義務があるのです。
 ある種の犯罪に走ってしまった人たちには、貧しい家に生まれて満足な教育を受けられなかったとか、(認定されていない)精神疾患的なものを抱えていたとか、そうした事情があったかもしれません。それでも罪は罪で、責任はとらないといけません。結果は結果です。これが一つ。しかし総べてではありません。残りがあって、それが彼または彼女の人生です。そこに至ってしまったどうしようもない運命と偶然。それもまた無視することはできません。弱者を慈しむとは、犯罪者を慈しむことです。罪を憎んで人を憎まずとは、そういうことでしょう。そんな当たり前のことを、昔の人はちゃんと知っていたから、こうして言葉を残してくれているではありませんか。
 簡単じゃないんです。色々、仕方ないんです。
 わたしは、結果するあなたと向き合い、その次元で語り合います。それが社会の次元だからです。そこであなたがどうしようもないクズだったり、気持ち悪いメンヘル野郎だったとしたら、それは勿論、良い気持ちはしません。しかしそれでも、話が終わったりはしません。あなたがあなた自身を賭け金として差し出す限りにおいて、約束事として、わたしはわたしの命をかけて向き合う義務があるのです。そういう人間であることを引き受けて、初めてこの世界で、この社会で生きているのです。それが近代的主体というもので、その約束事が守られている限り、どんなに憎くて気持ち悪くても、まだ引き金を引くには早いのです。
 あなたが物質に逃げ、人間をやめて、主体を放り出した時、その背中をわたしは撃ちます。その時あなたはもう、人ではなくなったからです。逃げたい気持ちはわかります。色々あったのでしょう。病気を振り回したいでしょう。生まれを呪いたいでしょう。不遇を嘆きたいでしょう。死ぬほどわかります。しかしそれでも、あなたにはこちらに顔を向ける義務がある。その顔をわたしは撃ちませんが、人間をやめて物質になるなら、背中を撃つのに躊躇はありません。物を撃つのに罪はないですから、人の形をしたただの肉など、千人万人でも切り刻めます。
 繰り返しますが、あなたにも事情が色々あったでしょう。でもね、はっきり言えばわたしにも色々あったんですよ。本当にクソみたいな人生を、地べたを這いずり回って泥水を啜って、謂れのない恥を背負って生きてきたんですよ。本当のことを言えば、ここでこんな文章を書いているこの時点で、もう死ぬほど恥じているし、気持ちの悪いことを山ほど思い出して、身を焼いてしまいたい程苦しいですよ。生まれてこなければ良かったと、あなたの倍程でも思ってますよ。でもそんなことはどうでもいいんです。理解など要らない。そんな簡単にわかってたまるもんですか。ただ、あなたに色々あるように、わたしにも色々あるんだと、それを信じて下さい。あなたの前にいるのは、ただの人間、人間を引き受けた者です。わたしが決めたのです。その結果を信じて下さい。色々全部背負って、顔と名前と名誉を賭けて、万の恥辱と侮辱を受けながら、馬鹿みたいにノコノコこの場所まで出てきたんです。この根性なしの臆病者の怖がりが、震えて失禁しそうになりながら、ビビッてんの丸出しで笑われながらここまで来たんです。
 わたしはあなたに責任があるし、あなたもわたしに責任があります。わたしの命の欠片を差し出すから、あなたも命の爪の垢くらいは出して下さいと、そういう話です。そこで喧嘩したり笑ったり泣いたりして、段々ちょっとずつ、大してわかりもしないまま、少し仲良くなって、ちょっとわかって、でもやっぱりわからなくなって、微妙に近くなって、また離れて、それで一緒に生きていけばいいじゃないですか。
 大人なんだから、礼儀は大事ですよ。何でも順番が大事。時間がかかるんです。時には何年も。いきなり踏み込まれたら、わたしだって怒ります。これでもレディですからね。撃たないですが、ひっぱたくくらいしますよ。センシティヴな話題というのはあって、そういうのに軽々しく触れる人は大嫌いです。わたしを一瞬でも笑ったら、神かけて言うけれど、次の瞬間に前歯をへし折ってやる。逆にわたしが失礼なことを言ったり間違ったことをしたら、ひっぱたいてください。でも終わりじゃない。まだまだ続くんだから。まだ、まだまだ、続くんだから。一歩ずつ焦らずゆっくり、順番を守って、互いの面子を重んじて、「怒ってないかな、大丈夫かな」とかビクビクしながら、極力礼儀正しく、でも時々間違えて、怒られて謝って、やっていったらいいじゃないですか。
 物質ならいいですよ。いくらでも撃てます。しかし顔に銃口を向けられるほど、わたしは強くもなければ堕ちてもいません。あなたに色々あったのは知っていますし、信じていますから、顔を向けてさえくれれば、簡単に撃ったりはできないんです。そういう義務が、わたしにはあるし、あなたにもある。
 社会と愛の話をしよう。

kharuuf

Share
Published by
kharuuf

Recent Posts

カミユ『ペスト』

 カミユの『ペスト』を漫画化し…

1年 ago

私信です

このポストはまったくの私信です…

4年 ago

不可知論のギリギリ一歩手前で永遠に宙吊りにされた

何が正解かわからないから人はパ…

4年 ago

体験の墓石

写真は多くの場合、最初は体験と…

4年 ago

過去が圧倒的にわたしたちを飲み込んでいる

過去を肯定する、という言い方は…

4年 ago