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テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗

 昨夜の外山恒一トークライブで質問と称して延々と喋らせて頂いたPCと抵抗の問題、およびTwitterでの連投について、簡単にまとめてメモしておきます。
 なおこの件は先日の表現の勝手、テロだけがテロじゃねえ(このエントリ中に貼ったDADA101イベントでのわたしの質問とも関連)と、何度でも繰り返し取り上げる良い抵抗と悪い抵抗などというものはないに深く関係しています。

 質疑応答の中でどなたかがPCやバリアフリーの問題を、確か先日起こった車椅子の木島さんの問題と絡めて質問されました。そこで外山氏が「PCというのは基本的に『正しい』からね。これとどう戦うのかというのは、すごく難しい」ということを仰っていて、改めて氏の慧眼、そして氏の問題系の根本がここにあるということを確信したのです。
 外山恒一は反管理教育に始まるナイーヴな社民的運動をスタート地点としながら、マルクス主義を経てファシストを名乗るようになります。その過程で様々な問題系に関心を向けるようにはなったでしょうが、軸となる系は反監視社会でしょう。そして当初は、「人民と共に監視社会に立ち向かう」素朴な立脚点に依拠していたのですが、実践の中で「どうやら人民は監視社会が大好きで、ちっとも味方じゃないぞ」ということに気づくのです。人民は蒙昧な大衆で、いずれ覚醒すれば全員が革命家となると考えるような素朴ボルシェヴィズムから、差異主義的な「ファシズム」への転向です。ここで言うファシズムは、明白に反民主主義ではありますが、氏曰く、

「アナキスト党による一党独裁を目指してます」と云えば「そんなのアナキズムではない」と云われるんで、「ええ、だからファシストを名乗ってます」と答えてます。

 ということであって、根本にあるのは反グローバリズム、一つの統一基準が世界を覆い尽くすことへの抵抗でしょう。そもそもがムッソリーニの元祖ファシズムにしたところで、先進資本主義への抵抗から生まれてきたものであって、今日世界中でほとんど漫画的に揶揄されているようなただただ極悪非道な狂人集団であった訳がありませんが。
 このような経歴を持ち、一時はあらゆる属性からの解放を夢見たという外山氏ですから、反PCとと言ったところで、ナイーヴに障害者や少数者を弾圧するような意味で言っている訳がありません。そもそもが「我々少数派」な訳ですから、少数者の保護のようなPCの掲げるお題目、それらの各個別については、氏も否定するものではなく、どちらかというと支持する側でしょう(わたしもそうです)。だからこそ氏は「PCというのは『正しい』ものだから」というのです。PC、フラット思想の言説というのは、基本的にわたしたちの共有している近代先進諸国のロジックの中では辻褄の合ったものであり、言わば当然の帰結、言葉の上では抗いようのない「正義」なのです。
 それほど「正義」であるなら、何故これに抵抗するのか。
 これに対する解答の端緒も、昨日の質疑応答の中に見られ、例えば「フェミニズムは資本主義への応答(抵抗?)として生まれた」といった下りです。PC的フラット世界を構成する言説は、わたしの言い方をするなら症候であり、陽性症状に過ぎません。これらは資本主義という陰性症状に対して、治癒の過程で形成されたカサブタのようなものであって、それ自体を(ネトウヨ的に)闇雲に攻撃することも、金科玉条のように盲信することも、的を大きく外しています。
 何度も言っていることですが、PC的なもの、フラット的なものというのは体(テイ)なのです。そういうお約束で、「○○というテイで」のあのテイです。これらは共通の物語として把持されることで、神ならぬものが神の如く振る舞う物神的資本主義の脅威から部分的にであれ身を守る、そうした用具的なものとして機能するのです。ですから、いささかベタですが、ざっくりと「資本主義への抵抗」ということで言うなら、カサブタ的言説一つひとつは、わたしたちの人間性を防衛する方向で働いています。問題は、これが相互に連結されスターリニズム的な大きな物語となり、体制化することです。この体制化というのは、極悪非道な権力者が無茶苦茶をする、ということではなく、人民自ら「システム化したカサブタ」を内面化し、単にカサブタに過ぎなかったものを自然の皮膚であるかのように振る舞いだすことです。つまり「テイ」をガチに受け止めてしまう、ということです。これが正に、現在進行している「世界の左傾化」、スターリニズム的ディストピアの支配です。
 これは言わば、「隠された意味」を探す神経症から、総ての意味が現前している精神病への転回です。近代的主体とは神経症的主体であり、換喩的・論理的・人と人の間のものとして成り立っていたものですが、ある段階からこれが一周回って隠喩的・直観的・意味現前的な世界観が大きく勢力を持ち始めたのです。東浩紀氏などが大分以前から指摘していることもこういうことでしょう。おそらくは高度資本主義社会が積み上げてきたインフラ的環境が高度に成りすぎたこと、社会の変転が人に追える速度の限界を越えてしまったこと、インターネットの普及により平易な「回答」へのアクセスが即時的となったこと、等々の事情が組み合わさった結果、ロジックを辿って(歴史の必然として!)己を発見する、歴史的経緯の中で自らの主体を形成する、という営みがどこかで放棄されたのです。残されたのは、最初から世界に意味が書き込まれているとナイーヴに考える人々、意味がモノのように世界に張りついている精神病的風景です。それは統一された意味が地平線の果てまでも覆う「他者なき世界」でもあります。
 わたしたちが抵抗するのは、この「テイがガチになった世界」です。わたしたちは弱く愚かで、自己中心的で身勝手で愛に飢えた、つまらなく平凡な存在です。数学なんて得意じゃないし、筋道立てて考えようにもすぐ分からなくなって、漢字だってそれほど覚えていない。そういう何でもない人間たちが、偶像から身を守るためにかろうじて作り出したカサブタが、癌と化して人を襲い始めているのに、抗わなければならないのです。
 システムのない社会というものはありません。どんな原始的な社会であれ、何らかのシステムというものはあります。ですから、システムの存在そのものを否定することはできません。しかしシステムしかないなら、それは社会ですらありません。テイにすぎなかったPC的フラット的言説が内面化する世界とは、システムだけが総てになる「社会のない世界」です。システムと抵抗は二つで一つ、両方あってまともな社会です。
 PCは正しいのです。しかし正しいことが総てなのか。正しいことも正しくないことも、両方あって人の社会なのではないか。ここで投げたいのは「正しいことは正しいのか」という愚問です。これを問うためには、リベラル的な「正しい」言説では不十分なのです。個人的に、各論について言えばリベラルの主張の多くには首肯できるのですが、それを裏支えしている思想の貧弱さに鼻白むのです。彼らのやろうとしていることは、所詮正しさで正しさに抗うことでしかありません。リベラルもグローバリズム勢も、見通しの良い一つの正義で世界を覆おうとする点では同じ穴のムジナなのです。
 ここで言っているのは「正義を疑え」などというベタな話ではありません。正義と思われるものが偽物で、ペラっとめくると「本当の正義」が隠れている、などという簡単な話ではないのです。そうではなく、正しさと呼ばれるこのものは何か、ということを問わなければいけないのです。これは相対主義ではありません。複数の正しさがあって、それぞれの言い分があるよね、などという、どこかのインテリが言いそうな何も言っていない言説ではないのです。「彼ら」が正しいのなら、わたしたちは悪者であることも時に積極的に引き受けるのです。わたしたちは加害者なのです。そこまでワンセットで社会なのです。
 そうした意味で、外山氏がおそらくは演出も込みでファシストという「この世界」で汚名に塗れたワードを選び取り(勿論根本にはムッソリーニのファシズムへの回帰があるにせよ)、衒いなく独裁を謳うことには意義があります。人民は味方ではないし、政治に参加させるべきではないし、実際、ほとんどの人々は政治になど興味がないのです。彼の言っていること一つひとつは驚くほど正しくて、ただ余りに正しいので「それを言っちゃあお終いよ」な話、ぶっちゃけすぎて誰にも相手にされない放言になっています。現下の「民主主義」にしたところで実際上は肥大した行政の一方的支配であることは明白であり、普遍の理念でも何でもありません。今日の食い扶持と娯楽にだけ興味があるならそれで大いに結構、人はそういうものだから、政治参加などしないでくれ、という、至極当たり前のお話です。勿論民主主義を解体して文字通りの「独裁」を成立させたところでユートピアなど現出しませんが、右もクソ、左もクソなら、せめて理念で支配でもさせてみれば結構ではないですか。そういうヤケッパチなことを簡単に口にする人はこの社会では「ダメな人」ですが、氏は自ら加害者を選び取っているのです。
 勿論そこには限界もあって、現時点に至るまで極めて少数貧乏集団である九州ファシスト党が、何かの間違いで(失礼!)大規模化した場合、必ずそこでシステム化ということが起こり、地方のチンピラが更生して末端の警官となり、ヤクザが民間軍事会社となるように、また別種の「正しさ」の中に取り込まれていく、というリスクが現実化するでしょう。おそらくはその辺りまで、アーティスト的な感覚をもって嗅ぎ取り、結果今に至るまで彼を特異な変人に留め、地方の一活動家に収めてしまっているのかもしれません。我々団がいつまで経っても大きくならず、外山恒一がいつまでも貧乏なのも、ある種彼自身の積極的(無意識的?)選択の結果といえます。わたし個人としては、そうした「小さい」外山恒一を愛おしく思うし(声の大きい者にロクな奴はいない、声が大きい時点で例外なくクズなのだ)、そういう人々が彼らの真摯さを信じて集っている訳ですが、運動としての限界であることも事実です。
 多分、この運動は組織の大規模化ではなく、外山恒一の複数化を志向しなければいけないのでしょう。事実、氏が一番力を入れているのは春夏の学生向け合宿であり、運動スタイル自体を「どんどんパクれ」と勧めています。あんまり複数化すると元祖外山恒一の食い扶持に響くかも分かりませんが、散種されたものが変異し走り出すしかおそらくは方法がないのでしょう。これはこれでいささかナイーヴな未来像であって、あまり手放しに主張もできないのですが、少なくとも個人的には他にない種類の希望を微かに感じられるところもあります。というより、他があまりに絶望的であまりにかっこ悪いので、それくらいしか気持ちの高まる場所が見つけられません(Twitterでチラッと書きましたが、彼らが見た目にこだわり、主要メンバーが全員モテそうなのも重要。モテない人間の真似などわたしは決してやりたくないし、そんな奴らに用はない)。
 ちなみに彼がトークライブの中で言っていた「忖度してはいけない」というフレーズも示唆的です。共謀罪の成立などで一番脅威なのは、市民が勝手に萎縮してしまうこと、勝手に権力の意を「忖度」してしまうことだ、という指摘です。これこそスターリニズム的支配の内面化であり、気を使って空気を読んでしまう余りに、自らすすんでカサブタと一体化してしまうのです。気を使い空気を読む、という日本的文化自体については、わたしは素晴らしいことだと思っていますし、これらが全然できない人は社会人として問題なのですが、これもまたこの社会が長い年月をかけて醸成してきたシステムであって、システムは総てではありません。何か、残りがあるのです。

 大分迂回した上で、最初の質問のきっかけになった木島氏の問題について軽く触れておきます。氏を「プロ障害者」「クレーマー」等と揶揄する向きがあり、リベラルが否定し反論する、という流れがあるようですが(「プロ障害者」については氏本人が素晴らしいことに肯定)、わたしとしては、氏が(多分)「プロ障害者」「クレーマー」であるが故に支持しています。障害者だからといって「可哀想な善良な市民」像に押し込められるいわれはないし、使えるものは何でも使ってシノいでいくのは当然でしょう。叩けば埃が出るくらいで丁度です。むしろ積極的に少し「悪人」でなければなりません。そしてこのような壊乱分子が、「バリアフリー」なるフラット世界側の主張を振りかざしていることに、わたしは希望を見るのです。バリアフリー、ジェンダーフリーが風紀委員的スターリニストのお題目になっている現状には抵抗しているのですが、氏がやっていることはカサブタが正しくカサブタとして機能する次元の活動であって、むしろシステム化したPCに対し結果的に抵抗する働きをしています。こうした因縁の付け方をこそ、わたしたちは随所で実践していかなければいけません。因縁はわたしたちのものであり、システムのものではないのです。
 システムの用意した道を外れると即失敗者であるかのような陳腐な世界観が若い世代を中心に蔓延していますが、失敗者であるくらいなら悪者であれば良いし、地を這い泥水をすするならオレオレ詐欺でも何でも勝手にやれば良いし(それもまたシステム化する地獄ではありますが)、加害者になれば良いのです。
 可哀想で弱いものになど用はない。一瞬でも強く美しいものを見せてくれ!

kharuuf

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kharuuf
Tags: 外山恒一

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