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わからないことを畏れよ

 ちょっとあるところで少しイスラームについてのことを書いていて、その繋がりで吐き出したいことがムラムラ湧き上がって困っているので、メモしておきます。

 正直、あまりシューキョーという語り方をするのは好きではないのですが、「すべてはイスラーム」なので、結果的にイスラーム絡みのことをここにも色々書いてしまっています。
 しかしわたしは、地上に十億以上いるムスリムの中でも、端っこの端っこ、クズの中のクズ、まったく取るに足らない、芥子の実のような存在です。正しいとは限らないどころか、大体間違っているでしょう。仮に正しくても、それは正しいこと全体の、爪の垢ほどの小さな部分に過ぎません。
 こういうことを言うのは、一つには、言うまでもないエクスキューズとして、こんな戯言をすべてと思ってはいけない、ということです。ただ、そんな勘違いをするのは多分、お坊ちゃんの大学一年生でも滅多にいないことなので、本題は次です。
 部分と全体ということを、いつもいつも考えています。
 わたしたちは、常に部分しか見ることができません。小さな小さな部分です。残りの99%は見えないし、わかりません。
 わかる部分を増やそうと、「色んな人の本を読みましょう」といった言説があります。それはそれで結構。確かに、色んな人の意見に触れるのは有用だと思います。ただし、それを全力で一生涯続けたとしても、依然として、わたしたちに知りうるのは、取るに足らないような卑小な部分に過ぎません。
 残りのことがわからないので、「理解を進めましょう」「相互理解」みたいな言説が、世の中には沢山あります。そういうことを口にする人たちは、もちろん善意でやっていらしゃるのでしょう。しかし、理解の名の元に行われていることの多くは、わからないものに取り敢えず通りの良い名前を付け、蓋をして、わかったことにして、小さな安寧を得る、ということでしかありません。
 世の中のほとんどのことはわからないし、わからないで良いのです。
 わからないということは、恐ろしいことです。不安です。でもそれで普通なのです。
 アラビア語で敬神のことをتقوىタクワーといいますが、اتقي اللهイッタキーッラーと言ったら「アッラーを畏れよ」ということです。巨大で恐ろしい「わからないもの」を、畏れ、敬うということです。畏れと敬いというのは背中合わせで、時に恐怖をもたらずものが世界のほとんどを占めているのは、人類開闢以来、まったく正常な状態です。
 わからないことに、謙虚にならないといけません。わからないことを、正しく畏れなければいけません。わかる必要などないのです。
 わからないものに簡単に名前を付けてわかったことにするというのは、わからなさの内実、手の届かないものを踏みつけにしていくということで、そうした行いはやがて自分自身に返ってくるものです。
 不安で恐ろしくて震えながら、でも勇気を振り絞って一歩ずつ踏み出し、そうやって人は生きていくものなのです。わたしたちのご先祖様も、そういう世界を必死で生きてきて、その末裔がわたしたちなのです。

 わからないことを畏れよ、というのは、わからないことをすべてほったらかしにして、わかることの中だけで堅実に生きよ、ということと、イコールではありません。
 いえ、結局のところ、わたしたちはわかること、この小さな部分の中で生きるより他にないのですが、同時に、その外、全体というものについての想いを、完全に断ち切ることができません。
 「ここにあるのは部分だが、どこかに全体があるのではないか」という気持ちを、捨て去ることができないのです。
 この想いをいかに目の前の実際と擦り合わせていくか、reconcileするか、その方法にはいくつものヴァリアントがあります。語らいの中で欲望のエンジンを回していくなら神経症的、イマジネールな世界に全体が個物として文字通り現出すると考えたら倒錯・カルト的、物質として外部から攻撃してくるとしたら精神病的でしょう。いずれにせよ、そこには様々な方法があり、それが人々の多様な世界観、世界における立ち位置を形成しています。
 そして、わからないことを簡単にわかったことにしてしまおうとする、現代的な風潮というのは、いささかカルト的で、あまりにも幼児的な面があるかと思います。
 見通しの良い世界、それこそ連作的にここで書いていた「フラットな世界」的なものが広がることで、この傾向が助長されています。フラット化によって実現される透明性とは、実のところ、そこからこぼれ落ちたものを徹底的に不可視化する運動にすぎないのですが、人々には風通しが良く「不正の許されない」良い世界が現出しつつあるような幻想を与えます。わからないことの恐怖を和らげる、麻薬のような作用です。
 実際のところ、わからないものはわからないままで、全体には永遠に手が届きません。そしてフラット幻想というものは、その仲裁すら許さず、はじめからことを「なかったこと」にしてしまうものです。
 全体の諦めきれなさというものを、わたしたちは、語らいへと転化していかなければいけません。部分に生きよ、全体を想え、という矛盾する命令を前にして、わたしたちが知らなければいけないのは、それが巨大ななぞなぞだということです。このなぞなぞは、答えのための問いではありません。それを巡って人々が語らい、欲望し、繋がり、連鎖していくためのものです。

kharuuf

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