これまでのお話:
良い抵抗と悪い抵抗などというものはない
このフラットな世界でおしっこを漏らしながら兄貴の死体を埋めに行く
馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい!
「カラスの白さを感じてみたい」ということを書きました1。カラスが白いと心の底から本当に感じている人がいるとしたら、ただそのメカニズムを科学的に理解するとかという話ではなくて、「白さ」自体を体験してみたい誘惑にかられる、ということです。
いきなり鬱陶しい自分語りを始めますが、こういう「違和感の向こうにあるものを感じてみたい」という衝動というのは、わたし個人にとっては結構大きなモチベーションになっています。皆さんどうですか? 良い子は真似しませんか? まぁ、まともな大人はわざわざそんなことを考えないものかもしれません。多分わたしはボーダーっぽいというか、自他境界が十分に確立されていない、子供っぽい人間なんでしょうね。それで、ちびっ子の頃から大学生くらいの時分は「自分にとって良いものは皆んなにとっても良い」「ロジックは普遍で誰にでも同じように演繹展開できる」とか本気で思っていたんですよ。でも、流石に普通に生きていれば、自分とは全然違う行動様式を持っている人というのが目に入ってくる。本当は自分以外全部違うんですが、キチガイだから「理性ある人なら自分の考えと同じ考えをするに違いない」とか思ってたんでしょうね。そうじゃない人は、なんか特殊な事情とか、政府からお金もらってるとか、そんなのがあるのかと思ってました。
例えば、十代の頃とか左翼っぽいものが正義に見えるものでしょう? いや、今の子は違うかもしれませんが、昔はそうだったんですよ。だから、議会政治の枠組みの中で言えば、共産党とかですね、今思えば左翼にしてもちょっと残念な感じのものが、言葉の上だけなら正しいように映ったんですよ。でも現実には、共産党はそんなに人気はない。なぜか。それはきっと、何か大人の事情的な、未知のファクターが働いていて、その結果多くの人が違う結論に至っているのだろう。そういう風に考えたんですよ。つまり、自分の考えていることは既に他の人も全員同じことを考えていて、その上で、他の人は自分の知らない変数を受け取っていて、その結果、答えがズレている、みたいなことです。
それである時、同級生だかに、「普通に考えれば左翼っぽいものを支持する筈だけど、これこれこういう理由で」みたいな話をしようとしたら、その最初の「普通に考えれば」のところで、既にブチ切れられたんですね。それのどこが普通やねん、と。もう最初から間違ってるやないか、と。これにわたし、びっくりしましてね。演算規則が一緒なら計算すれば同じ答えに等しくたどり着く筈なのに、もう物凄い最初の辺から違う方向に走っている人がいるじゃないか、と思ったんです。前提からして違う、と。
今思えば全く常識というか、小学生くらいで学習することなんですが、わたしは馬鹿だからなかなか気づきませんでした。変数として与えられる条件だけでなく、そもそもの演算規則(のように見えるもの)自体、自分で思っているほど確かでも普遍的でもないのです。人間、考えてることの九割は思い込みです。しかもわたしの場合、相当馬鹿なのか、一回のみならず何度も何度も何度も同じようなことを経験しています。馬鹿につける薬はないです。
で、違和感の向こうを感じてみたい、カラスの白さを感じたい、というのは、こういう「一つの世界」的な考え方とつながっているのでしょう。物理法則のような普遍的ロジックが人の理性に先験的に備えられているなら、「カラスの白さ」はありえないはずです。にもかかわらず、経験的世界には「カラスの白さ」が存在します。「わたし」の備えている演算規則を延長していっても辿り着けそうにないものが、現前している。これは気になります。大方の人々、真っ当な大人というのは、多分そんな風には考えないのです。最初からもっと経験的に考えるのです。だから「カラスの白さ」であるとか、理解し難い言動を行う人物とかがこの世界に存在することは、不思議でもなんでもないのです。
逆説的ですが、合理主義的な世界観をなぜか最初に獲得してしまったようなタイプの人間は、経験というものに驚くのかもしれません。それでいつまで経っても個物や経験というものに一々びっくりして惹きつけられるのでしょう。あるいは、そもそも子どもは一般に合理主義的なものですから、そこから成長できていない、ということかもしれません。よく誤解されていることですが、子どもは経験を個物の集合として捉え素朴帰納法的に学習するわけではありません。ざっくりした抽象、乱暴な仮説が最初に投げかけられ、それが経験によってテストされた結果、段々洗練されていくのです。帰納的・経験主義的学習というのは、もう少し成長が進んでから獲得されるものでしょう。
いずれにせよ、少なくとも現代日本では、こういう子どものような大人というのはダメな人間です。この前某所で、中川文人さんが、「(政治)運動みたいなことをやってると、その中心には『問題意識のある人』がいる。でもその周りに『問題のある人』がいて、さらにその外に『問題外の人』がいる」というお話をされていました。これすごく面白いし、こんなネタがサラッと出てくる中川さんはめちゃくちゃ話が上手い人だなぁ、と感心したんですが、わたしとかは典型的な「問題のある人」ですね。実際、色んなところでトラブル起こして生きてきました。なので、今はなるべく団体的なところには深入りしないで、こう、草葉の陰から応援してますよ的な立場でやっていっています。死んだおばあちゃん的なポジションです。
と、また回り道しましたが、「違和感の向こうにあるものを感じてみたい」という欲求は時になかなか強烈ですね。最近は歳のせいか「面倒くさい」気持ちが先に立つことが多くなって、命拾いしていますが。ええ、「面倒くさい」方がまともなんですよ。だってこの手の欲求というのは、要するに好奇心ですからね。「好奇心がある」。そう言うとなんだかポジティヴで良いことのような響きがあります。でも「好奇心に負ける」って言うでしょ。負けるんですよ。負けるんだから、きっとあんまり良くないことですね。「好奇心に勝つ」方が良いですよ。好奇心なんかに踊らされるのは馬鹿のやることです。
いや、個人的には好奇心に負けてる人は嫌いじゃないですよ。面白い人が多いと思います。ただ「面白い人だけどあんまり近づきたくはない」というパターンがよくありますよね。というか「面白い人」の八割くらいはそんなものです。
例えば、役所の出生届とか受け取る人がいますよね。ある日、若い夫婦がその人のところに書類を持ってくるんですけど、そこには「宇宙」と書いて「コスモ」と読ませるみたいな、そんな名前が書いてあるんですよ。それを見て、黙って受理するのでもなく、なんか大人の立場から諭したりするのでもなく、ブフーッ!とか吹き出してひっくり返って大爆笑しちゃうような人。そういうのが「好奇心に負ける」系の「面白い人」です。どうですか。クビでしょ、そんな人。わたしが若い夫婦の立場だったら殴ってますよ。上司だとしてもやっぱり殴るでしょうね。だから「面白い人」なんてロクなもんじゃありませんよ。市役所で働けません。
と、いつまで経っても本筋に戻れないのですが、この「違和感の向こうにあるものを感じてみたい」というものがどこから来ているのかというと、それは経験というものです。合理主義的である子どもが検証のために探す、その経験です。経験に叩かれて叩かれて、結果として子どもの合理主義が隠蔽されるのです。
一方で、経験主義科学という言葉があります。この「経験主義」は演繹的な「合理主義」に対して使われているもので、経験主義科学は経験を信じません。経験を信じない、というところから現代科学に通じる思想はできているんです。例えば、夜お星様とかを見ますよね。昔の人は暇だったから、夜はボーッと星を見たりしたでしょうね。するとそれがお空をぐるっと回っている。これはもう、お星様が大地の周りをぐるぐるしているとしか思えないでしょう。それが経験からくる理解というものです。でも科学はそう言いませんよね。その経験を一旦括弧にいれて、つまり「さておいて」、より普遍的な視座からものを見るんです。そういうのがあって、初めて地球が回ってる、みたいなことが言えるわけです。皆さんは学校で習うので、月の満ち欠けとか星の運行とか、本で読んだ知識でよく理解されていると思いますが、そんなもん、普通に野原に放り出されて思いつくことではありません。
合理主義的な子どもが経験を頼り、経験主義科学が経験を信じない、というのはなんだか面白いですね。
また余談ですが、この星の運行というのはちょっと前までの知の体系を考えるときに、非常に重要なものです。というのも、近代以前くらいの世界にとって、星の運行というのは数少ない「確かなる普遍」だったのです。地上のものはコロコロ変化しますよね。今日お天気でも明日は雨になるかもしれない。人間、生きても八十歳くらいまでで大体死ぬ。はかないものです。諸行無常ですよ。でも、夜のお星様というのは、物凄い安定しています。今日の夜見ても明日の夜見ても、大体変わらない。一年を通じてちょっとずつ変化しますが、次の年にはまた同じことが繰り返される。おじいちゃんのそのまたおじいちゃんの頃から変わらない。厳密には、毎年ちょっとずつ変わっているのですが、地上の慌ただしさに比べればほぼ不変と言っても良いでしょう。だから昔の人は、夜にお空を見て「変わらないものがある」って思ったんですよ。缶コーヒーのCMとかでありそうですね。
それは単に、海を航海するときに道標にするとか、そういう実用的なものだけのお話ではありません。「変わらないもの」「確かなもの」を、夜空のお星様に託したんです。占星術とかああいう発想も、万物の流転する地上というのは、夜空の普遍的ロジックの仮の写しにすぎないのだから、夜空に置き換えて考えましょう、ということでしょう。人間はそういう発想をするんです。「経験主義科学」だって、個別的な事例は普遍法則の「写し」として理解しているんですから。
プラトンのアトランティスのお話がありますが、実はあれはお星様の話をしているのではないか、ということを言った人がいます。そういう視点で読み替えていくと、同じプラトンの記述が全く別の文脈で理解することができるんです。パラダイムの転換ですね。このお話、わたしはたまたま大学一回生の時に冨田恭彦先生の講義で伺って、とてもエキサイトしました。今でも覚えているくらいですから。イデアの洞窟は夜空にあるんです。
さて、余談を終えて戻りますと、今の世の中というのは経験を「さておいて」、より高次の視点からものを見ることで成り立っています。日常レベルでは別に経験でやっていて構わないのですが、ちょっとパブリックな場に出たら、抽象化した普遍的な視点でものを見るのがお行儀が良いんです。学校というところは、基本的にそういう思考歩法を訓練しているところです。書き言葉的・リスト的・カテゴリー的思考方法です2。カテゴリーというのも、「さておいて」といのがなければ不可能です。「のこぎり」「トンカチ」「包丁」というものがあって、「道具」というものを抽象しているのです。「道具」という概念自体は直接手で触れるものではないのですから、目の前の「のこぎり」を「さておいて」しなければ、こういう考え方はできません。
日本のように教育水準の高い国になりますと、大体の人が字くらい読めるし、かなり大勢の人が、こういう「さておいて」思考を基礎程度までは身につけています。ですから、現代日本で暮らしていると、これが当たり前のような気がしてしまいますが、ちっともそんなことはありません。人間、基本的には経験で考えるんです。犬猫と一緒ですよ。そういう大切なものを「さておいて」、目にも見えないなんだか得体の知れないものにお預けする、というのは、高度な訓練があって初めて成り立つものです。
ちなみに「さておいて」のために一番重要なのは機械的な教育訓練といったことではなく、信頼です。学校制度というものができる前も、人は先人の知恵などに学んできましたよね。足腰立たないおじいちゃんが、イワナの上手な釣り方とか教えてくれるんです。でもこういう教えは、結構しばしば、ちびっ子の経験には反するんですよ。武術なんかだとゆっくり動くから早く着く、みたいのがあるんですけど、そんなもん、どう考えても直観に反するじゃないですか。それを「さておいて」おじいちゃんとか師匠の言うことを聞くというのは、信頼によるものです。爺さんが言うならとりあえず騙されたと思ってやってみるか、みたいなことです。かけがえのない自分の経験を「さておいて」、それに優先して人の話を聞いてみる、というんですから、これは信頼関係がなければできるものではありません。だからそういうものを捨象して仕掛けだけで教育を回そうとしても、ロクなものにならないでしょう。実際、ロクなもんじゃないでしょう?
さて、この「さておいて」が日本やいわゆる先進諸国のように行き渡ってきますと、世の中、その発想を前提にします。これがフラットな世界です。「さておいて」の先にあるのは普遍的なものなので、こういう透明度が高く何度やっても同じ結果が出る、確かなものが信頼されるんです。パブリックなものはすべてこれで埋め尽くされます。一方、人間は本来「さておいて」とか言われて経験を手放すのはイヤなものですから、そういう部分を全部否定することもできません。だからそういうのは、プライベートな空間でやってね、ということになります。お家のなかでやりましょうね、と。恋愛なんかが典型ですね。恋愛するのはオッケー。しかし公私混同は困りますよ、ということになっています。
本当は、パブリックとプライベートというのは、それほどくっきり分かれているものではありません。第三世界の軒先的なもの、というお話をしましたね3。軒先とか縁側とか、ランニング一枚のオッサンが煙草吸いながら新聞読んでる空間というのが、いわゆる第三世界には大体見られます。プライベートとパブリックの中間的な領域です。こういう空間があると、プライベートはプライベートとして保存したまま、スーツ着るほどキチンとしなくて、経験を括弧に入れ切らないでも語ることができるんです。ですが、日本のような国になると、どんどんフラット化が進んで、この軒先的空間というのが、物理的にはもちろん、言説の中でもほぼ壊滅状態になっています。公私をしっかりわけましょう、ということです。
壊滅状態と言っても、正確に言えば、枠をくくった上で許可されている空間というのは存在はします。それはアートや表現、フィクションの世界です。この非常に広義のヒョーゲンの世界では、ランニング一枚のオッサンが煙草吸いながら話をしても許されるんです。最後に「実在の人物・団体とは一切関係ありません」とつけておけば、結構色んなことを喋っても大丈夫です。ある種の治外法権です。
ヒョーゲンの世界で軒先的言説が許されるのは、ヒョーゲンとは「さておいて」が可能なものだからです。荒唐無稽なお話をしてワッハッハッと笑って、そこから冗談は「さておいて」、真面目なお話を始めるんです。
この世界で何が一番称揚されているかと言えば、恋愛です。あの、プライベートでやって頂く方の恋愛です。恋愛というのはフラット世界で非常に特化して物語化されている領域です。恋愛は「公認された私的空間」で、パブリックの方はなるべく大衆をこの矮小化された世界に押し込んでおきたいのです。だって恋愛は軒先から見て家の奥の方でやることですから、公道に出張ってこられるより家の中に引っ込む方向にやってもらいたいんですよ。「経験を捨てたくない!」という子供じみた馬鹿どもの願いを、すべて恋愛にぶち込んでいるのです。馬鹿はセックスでもしとけ!ということです。
逆に政治というのは、一番嫌がられる領域です。軒先があんまり公道に突っ込んできたり、首相官邸の前にランニングのオッサンが座っていたりすると、すごく怒られるのです。軒先というのはプライベートとパブリックの中間で、本当は境目なんかありません。境目がないからこそ機能するのですが、一方で「境目がないぞ!」ということをあんまりアピールされると困るのです。そんなことになったら、軒先がどんどん伸びてランニングのオッサンだらけになってしまうから、やり過ぎると怒られる仕組みになっているのです。
わたしは以前にフィクション、つまりヒョーゲンの本を出した時、そのお話の中で天皇陛下が射殺される場面があったのですが、編集の人に「ここだけは変えてくれ」と言われました。その時は「あぁ、そういうのってホンマにあるんやぁ」と変にホンワカ感心したのを覚えています。わたしは他に、リアルに京都で「ぶぶ漬けでもどうどす」と言われたことが一回だけあるのですが、その時と同じ気持ちでした。ちなみにわたしは、天皇陛下が撃たれないようにしろと言われれば速攻撤回しますし、ぶぶ漬けも食べないで帰ります。
フラット化が進んだ世界では、公私混同がしっかりしすぎて、この軒先空間すらも透明化されようとしています。本来、軒先は境目の曖昧さということによってその機能を果たしていたのですが、「軒先は家の中に作りましょう」みたいなことが本気で言われるようになったのです。「ここから先はヒョーゲン、ここから先は真面目な話」と、くっきり区別をつけようとするのです。当然ながら、ワンルームマンションの中に作った縁側というのは、もはや縁側ではありません。こうしてヒョーゲンも死滅することになります。
2007年に外山恒一さんがはじめて都知事選に立候補した時(というか本当に立候補したのはその一回だけなのですが)、わたしは初めて彼の存在を知り、確かウェブサイトでその基本的な考え方を調べたりしました。それから実際に会いに行って、なるほどこれは凄い人だ、と思ったのです。
わたしはその頃、「さておかれない冗談」ということで彼についての文章を書いていました。
外山さんの都知事選政見放送は歴史に残る見事な演出で、大勢の人が注目していました。ただその多くは、要するにキワモノというか、「また訳のわからん泡沫候補が出てきたけど、シャベクリが面白いな」という程度だったでしょう。実際、右翼のものまねのようなパフォーマンスを演じる芸人さんもいらっしゃるわけです。外山さんがそのように受け取られてしまうのも、無理なからんことかと思います。というより、外山さん自身、そのように受け取られることを全部織り込み済みでああいう演出をされているのです。
かといって、「外山さんは面白おかしいパフォーマンスをやっているけれど、本当は真面目で、長年政治運動に従事されている方だ」などと言いたいのでは全然ありません。いや、彼が長年「運動の人」をやっているのは端的に事実ですが、「見た目」の向こうに「本当の姿」があると考えてしまうと、これもまたトラップにハマります。「本当は」と言い始めた途端に、本当のことは何一つ見えなくなります。
重要なのは、彼のパフォーマンスが見た目上「芸人」と見分けがつかない、それでいて同時に「運動の人」である、という、その現象の全体です。それはなにかといえば、ヒョーゲンというものを「さておいて」させない、ということです。
ひとしきり楽しく笑って「冗談はさておいて」と真面目な話を始めようとしたら、「さておいてじゃない!」と突然キレだすような、訳のわからなさです。
なぜなら、ヒョーゲンというのはもともとそう簡単に「さておいて」されてはならないものだからです。軒先は道に面しているから軒先なのです。ワンルームマンションの縁側などという馬鹿げたものは縁側ではないのです。その先で天下の公道に面していて、いつでもパブリックなところに侵攻可能で、そのギリギリのところで、印パ国境警備隊みたいにいがみ合ったり変な軍隊パフォーマンスやったり、「やったっぞオラァかかってこいやぁッ!」とかやっているものなのです。
逆に言えば公道中の公道のような政治の方も、本当は明晰判明で透明な言説が交わされているような空間ではないのです。外山さんが「政治の演劇性」ということを仰っていますが、ハッタリと化かし合いの世界なのですから、実に胡散臭いものです。ランニングのオッサンがちょっとスーツとか着てバッジなんか付けてイキってるだけの話なのです4。でもそれがバレてしまうと、全国のランニングのオッサンが「俺も俺も」とやって来て大変なことになるので、天下の公道というフリをしているのです。政治は演劇的であり、演劇は政治的です。
念のためですが、「さておいて」がいつも常に成り立たない、ということではありません。結構大体、「さておいて」されたりします。全然「さておいて」がされないなら、それははただの高速道路です。基本的には笑っていいんですよ。でも時々、笑えない。笑うとキレられる。そういう、境目のわからない緊張感がある、ということです。
つまりプロレス的ということです。ブックがあるとかシュートだとか、そういう風に切り分けできないところに醍醐味があるのです。「さておかれない冗談」とはそういうことです。外山恒一さんは「運動の人」ですが、それは同時にアートであり、アートは政治的であり得る限りにおいてヒョーゲンとして成り立ちます。逆に言えば「運動の人」としての一定の「不真面目さ」もあるということで、その辺が曖昧なまま、思わせぶりに匂わせるだけ匂わせて、ニヘラァとしているわけです。
そういうものを見ると、人間は不安になったり苛立ったりします。はっきりさせたくなるのです。プロレスの話で言えば、ナイーヴな人ほど安易にリアルファイトだの路上の現実だの言いたがるんです。でも「公正なスポーツ」なんてのは、それこそ枠組みがしっかりしていて「この中で暴れてくださいね」と線を引かれているものです。東京都公認の大道芸人とか、カフェイン抜きのコーラみたいなものです。もちろんスポーツはスポーツで素晴らしいもので、わたしは大好きですが、別にリアルでもなんでもありません。格闘技は実戦的ではないから素晴らしいのです。
では路上ならリアルがあるかというと、そんな簡単ではありません。人間は社会的存在ですから、道にいようがビーチにいようが、世の中の枠組みというものから完全にフリーになることなどありません。明日の仕事とか傷害罪でパクられたらどうしよう、とか色んなものが絡みます。それ以前に、無意識的な同調というのがあります。格闘技をやっている人はよくわかると思うのですが、ローを蹴られると咄嗟にローを返しちゃったりするんです。それはそういう波返し的な練習をしているから、というのもあるのですが、やられてみると「あ、それもアリだった」みたいなチャンネルが脳の中で開くんです。だから、「なんでもあり」とか言ったって、そう簡単に他人の目を突いたりはできるものではありません。目を突いて一撃で完全に終わらせられれば良いですけれど、そうでなければ相手は「あ、それもアリなんだ」と(意識できないレベルで)気づくのです。そうなったら自殺行為かもわからないわけです。重要なことに、「やったら相手のチャンネルを開いてしまうかもしれない」という先回りした計算自体、ほとんど意識できないレベルで行われている、ということです。それほどまでにわたしたちは間主観的存在なのです。
つまり、裸でリアルなものなんてのはどこにもないのです。リアルは常に汚染されています。そうでないなら、実験室のような閉じた空間で仮想的に実現するだけです。リングの中です。逆説的にも、リングの中には滅菌されたリアルがあり、リングの外は雑菌だらけでリアルが見つけられないのです。
ヒョーゲンが戦う場所というのは、そういうところです。目潰しがアリなのかナシなのか、それもよくわからない。ルールブックはないけれど、ルールがないわけではなく、ただルール自体が常に変動している。そういうところにあって、はじめてヒョーゲンは正しく軒先であり得るのです。
それが「さておかれない冗談」です。
外山恒一さんは胡散臭い人ですよ。軒先でタバコ吸いながら新聞読んでるランニング一枚のオッサンなんです。でもそういうものが唯一、プライベートで薄汚い不格好なものを、政治に叩きつけられるのです。
ついでにもう少し外山さんの話をすると、外山さんは胡散臭い政治=ヒョーゲンの人ですが、同時に結構「ちゃんとした人」です。言ってることは過激ですが、良く言えば柔軟、悪く言えばふにゃふにゃしていて、普通に話を合わせられる人なんです。結構空気の読める人だと思います。
その辺の自覚はあって、だから「ファシスト政権樹立に際しては自分はナンバーツーくらいがいい」みたいなお話をされていた記憶があるのですが、もし「ナンバーワン」みたいな人だったら、わたしは正直あんまり関わりたくないし、ただの面倒くさいおっさんです。
「実は結構ふにゃふにゃしている」から、あれだけ多くの人と付き合っていけるのでしょう。刑務所にも入れられて主義主張も二転三転しているわけですから、「ナンバーワン」みたいな人だったらもうとっくに愛想を尽かされて、誰にも相手にされていない筈です。ふにゃふにゃしているから、お友達がいるんです。
大体、「ランニング着て軒先にいるおっさん」ポジションというだけなら、世の中に掃いて捨てるほどいるんです。ただそれだけで面白がれるほど、世の中簡単ではありません。
あの人は基本的に育ちが良いんでしょうね。自分でもインテリプチブルとか言ってますが、割とおぼっちゃんなぽわ~んとした性格なんだと思います。それがさんざんこじらせて、挙げ句の果てにファシストを自称しスキンヘッドになったけど、どうにも人の良さが顔に出ている、みたいな全体が面白いわけです。本人はその辺にコンプレクスとかあるんでしょうけれど、そういう全体のお陰で今でもお友達がいるのですから、神様に感謝しないといけません。
それから「自分のことをドロップアウトしたエリートだと思っていたけれど、よく考えたら別にエリートでもなんでもなかった」みたいな発言も、個人的に大変共感します。わたしも割と長いこと、自分のことをそんな風に勘違いしていたのです。でも歳をとって冷静に考えてみると、別にエリートでもなんでもないのです。全然優秀でもないし、家も億万長者じゃない。ただ単にドロップアウトしただけの人なんです。ちょっとデキるところがあったとしても、県大会三位とか、そんな程度なんですよ。そりゃ隣近所じゃちょっとイキってられるかもしれませんが、プロになるのも厳しければ、世界になんか全然通用しません。それくらいの人たちが一番こじらせて人生棒に振るんですよね。さっさと頭切り替えて、少年野球のコーチでもしながら公務員やってりゃいいものを、「マイナーから挑戦する」とかいってアメリカに行ってボコボコにされて帰ってくるんです。
でも、自分のことだから言うわけじゃありませんが、それくらいの感じのこじれてこんがらがった人というのは、面白いですよ。いや、ただこじれてるだけではどうしようもありませんが、そのこじれ具合自体をバネにして面白く生きられる人というのがいるんです。どっちにも行けなかった人間が、アウフヘーベンして意味不明なものに化ける風景というのが、わたしは好きです。
ちなみに、外山さんってまつ毛が長いんですよ。あれであの人、結構得してると思いますよ。まつ毛がもうちょっと短くて人相が悪かったら、刑期もあと半年くらい伸びてたと思います。神様に感謝してください。
と、例によって激しく蛇行していますが、わたしたちの中には「カラスの白さを感じてみたい」のような、経験に対する執拗な執着があります。好奇心というのも同じ系譜のものです。それは端的に「子どもっぽいもの」で、フラットでお上品な世界にあっては「悪いもの」です。だから、基本的にはわたしたちは良い子になって、大人になって、好奇心に負けない立派な人間になろうとするのです。
もちろん、大人の中にも子どもの部分というのはありますが、それはプライベートで処分するのです。そういう切り分けをするのが、ちゃんとした大人というものです。
しかし一方で、切り分けできない、あるいはしたくない、という人たちがいます。なぜか。馬鹿だからです。馬鹿は公私がきっちりわけられません。大体、本当のところそんなところに線などないのです。約束事に過ぎないのです。そういう人たちは、プライベートにしまっておくべき「子どもっぽいもの」を噴出させて、この世の真理を暴いてしまうのです。
馬鹿の言うことにも一理あって、経験を「さておいて」するには、本当は信頼関係がないといけないのです。信頼というのは、話して付き合って初めて醸成されるものです。そういうのは軒先的な曖昧空間で初めて成立するものなのですが、世の中が綺麗になりすぎると、パブリックなものが遠く敷居が高くなり、馬鹿どもにとっては信用ならないものになります。信用というのは「信用しろ!」と言われてできるものではありません。なんとなくそばにいるとか、一緒にバスケやるとか、一緒にカッパライするとか、要は偶然的なものの積み重ねで、初めて成り立つものです。そういう掟を忘れて、「これくらいできて当たり前ですよね」みたいなしゃあしゃあとした連中が舗装道路をロードバイクで走った挙句、「反知性主義に対抗せよ」とか言ってるんですから、とっても個性的な方たちなんですよ。
こういうことを言うと「甘えるな」と怒られるのですが、そりゃ甘えますよ。「子どもっぽいもの」ですから。アンタももっとアタシに甘えなよ。アタシも甘えるからさ。
「さておいて」がうまくできない人々は、「さておかれないもの」を通じて、捨てきれない経験と経験を超えたものを仲裁しようとするのです。それは高架の高速道路の上に「非正規」のルートから這い上がろうとする蔦のようなものです。高速道路の上では「わかったフリ」のうまい大人たちが「わかったこと」をシェアしています。フェイスブックで「いいね!」しているのです。わからない連中は下道を走っていて、料金所なんか高くて通れないんです。というか、馬鹿だから料金所とかわかんないんですよ。変なところに勝手にはしごとかかけて登るんです。
わたしはわからないんですよ。もう本当に、基本的なところから、色んなことがわからない。「わかったフリ」にもうんざりしています。だからといって、「わからなくてもいいんだ!」とも言ってないんですよ。わたしたちにはわたしたちのわかり方があります。「さておかれない冗談」というのは、そういうものです。諦めの悪いヤツらがそういう冗談を言うんです。
シャレにならないんですよ。
少し続く?:基体幻想、フラットなホメオスタシスと馬鹿どもの死の欲動、メガネをかけた土人