高野秀行『恋するソマリア』についての文章で、「言語・料理・音楽(踊り)という人間集団を構成する三大要素」に触れましたが(私見では信仰と通底している)、ふと考えたのですが、食の禁忌というのは、単純に食から快楽を引き出す一手段なのではないでしょうか。
退屈というのは非常に恐ろしいものです。
人間だけでなく動物であっても、刺激のない限定的な空間にずっと放置されたりすると、段々と心身に不調をきたすようになることがよくあります。多くの動物は「退屈すぎると病気になって死んでしまう」のです。
これだけ情報と刺激に溢れている現代にあってすら、「退屈に悩まされる」「暇を持て余す」ということがあります。現代のように書記による情報が流通している状況というのは、人類の歴史の中ではほとんど一瞬しか続いていません。それ以前のほとんどの時代は、言語を通じた刺激というのは「お喋り」だったでしょう。今でも人間はお喋りが好きです。「いや、わたしは嫌いだ」という方もいらっしゃるでしょうが、人類の大半はお喋りしないではいられません。
お喋りのテーマは何でも良いのですが、求めているのは刺激ですから、何か差異をもたらすものが相応しいです。正確には、似たようなものが少しずつ形を変えて変奏されるような形式が一番望ましいです。現代におけるマンガやドラマなどが、大体の定番スタイルを持っていて、そこからの「ズレ」によって面白みを形成しているようなものです。
「大体同じだけどちょっとずつ違う」物といえば、色恋です。色恋というのはかなり普遍的なお喋りの中心テーマです。わたしの知る限り、一般に女性の方が男性よりより一層お喋りな傾向が見られると思いますが、女性は特に色恋ネタが好きなようです。エジプトのおばちゃんなどは、年がら年中他人の結婚の話をしています。もう一つ「喧嘩」というのもあり、要するに揉め事系の噂話ですが、やはり色恋には負けるでしょう。ただどちらも性と再生産という、生物の基本的な衝動と結びついたものです。
多くの人間集団で婚姻タブーが形成されており、それが単に生物学的な機能的要因によるのではなく、複雑なルールを運用することにより交換関係を動かすこと自体に重要性があることは、レヴィ=ストロース以来多くの方々が論じられているところです。これも別の言い方をすれば、「大体同じだけどちょっとずつ違う」変奏であり、非常に「音楽的」な性質を持っていると言えます。かつての人類社会では経済が親戚関係を重要なネットワークとして成り立っていた為、一層この音楽の複雑さが重視されていたことでしょう。現代においては、他にも無数のチャンネルが存在するため、親戚関係はそこまで重視されなくなりましたが、この対比は韻文と散文に照応するように思えます。
韻文と散文と言えば、かつての人類社会では、韻文の比重が現代よりずっと大きいものでした。というより、そもそも言語は詩的・音楽的起源を持つ、という見方をわたしは支持しています。これもまた、人類のほとんどの歴史においてはリソースが極めて限局されていたため、複雑なルールを運用することにより「大体同じだけどちょっとずつ違う」変奏を作り出す「退屈しのぎ」という面があったと言えます。
さらに言ってしまえば、言語そのものの「単純化」にも、同じことが言えるかもしれません。少なくともよく知られた屈折語の歴史について言えば、これらの言語の統語構造は基本的に段々簡単になっていっています。ラテン語とイタリア語やフランス語、アラビア語のフスハーと現代アーンミーヤを比べれば一目瞭然です。屈折的な対応関係、例えば形容詞の性数格が修飾される名詞の性数格に一致する、といったようなことは、「情報伝達」という現代的な見方をする限りでは冗長なものです。しかし多くの言語で、これらのルールを実際に運用してみる、つまり口に出してみると、なかなか心地よいリズムを形成しているのを感じることが出来ます。こうした冗長な屈折的対応というのは、言わば「韻を踏んでいる」のであり、「大体同じだけどちょっとずつ違う」変奏を作り出す手段だと考えれば、不自然ではありません。昔の人は本を読んだりネットを見たりしませんから、基本、お喋りだけです。限られたお喋りから最大限の「音楽的」差異の快楽を引き出すには、複雑な統合構造は有用だった筈です。というより、正にこうした差異の快楽のために、言語が産み出されてきたと考える方が自然ではないでしょうか。一部の鳥類が非常に複雑で技巧的なディスプレイを発達させていることを連想させます1。
さて、(フロイト・ラカンっぽく言うなら)色恋話が性衝動という「欲動」から音楽的お喋りという「欲望」の世界を作り出すものだとしたら、もう一つ、生物にとって非常に大切な「食べる」ことはどうなるのでしょうか。
もちろん、現代のわたしたちは食べる話が大好きです。世の中には無数のグルメ情報が溢れていますし、つぶあん・こしあん論争のようなしょうもないお喋りは多くの人々が気軽に参加できるものです。情報ではなく食そのものとしても、現代のわたしたちは多様な食材を利用し様々な料理を作り出すことが出来ます。
現代でなくても、人類はずっと料理をしてきました。ただ違うのは、ほとんどの時代・地域において、リソースが極めて限局されている、ということです。
高野秀行さんのように様々な地域の家庭料理に突撃されている方はよくご存知でしょうが、非先進地域のほとんどの人類は、毎日似たようなものばかり食べています。多様なメニューを楽しめるのは、時代を通じて一部の富裕層だけであり、現在でも貧しい人たちのメニューは非常に貧相です。
ですから、たまのイベント、正月などの祝祭においては、特別な料理が出てきます。これらの料理は、現代のわたしたちから見ると必ずしも美味であるとか、滋養があるというものでもなく、単に「珍しい」から嬉しいものです。「違う」ということ、つまり差異の快楽が重要なのです。世界各地で、単に「珍しい」ものが病気に効く、という民間信仰があります。これらのほとんどは医学的根拠のないものですが、単にプラセボ的効果だけでなく、「違う」というだけで快楽が呼び覚まされ、多少の効果があったのではないかと思います(そう知っているわたしたちには多分効果はないと思いますが)。
しかし何せリソースが限られていますから、「違う」ものを食べるにしても限界があります。そうした状況で快楽を引き出すには、足し算でなく引き算を使う、という方法があります。つまり何かを「食べない」ということです。
世界中の様々な文化・宗教で食品禁忌がありますが、これは丁度インセスト・タブーと一緒で、何かを「禁じる」こと自体で差異の快楽を引き出しているのではないでしょうか。もちろん、多少の機能的目的はあったかと思います。例えば不衛生な時代にその地域である食品を食べることには、食中毒の危険などがあったかもしれません。しかしそうした状況では、他の多くの食品でも同様の危険があった筈ですし、それだけで説明できるものでは到底ありません。
食品禁忌には、言わば「オレたちの音楽」を作る働きがあります。ある禁忌を共有し、その周りを回ることで、共同体の絆を形成するのです。禁忌が一定の条件下で発動する例が多いのは、「大体同じだけどちょっとずつ違う」変奏を作り出す典型でしょう。ある決まった日だけ肉を食べない、ある決まった期間の日中は食が禁じられる、といった例です。もちろん、共同体内部においては、それぞれの機能的理由が説明されます。「貧しい人々と気持ちを分かち合う」等々の物語です。しかしこれらは、ほとんど後付の理由であり、いくらでも論駁可能なものです。要するに、限られたリソースの中で引き算によって刺激を作り出し、その快楽を分かち合う、というところに本質がある筈です2。
これらの議論は、特段目新しいものではないかもしれませんが、「言語・料理・音楽(踊り)」ということから、またここで一つの変奏を作り出してみました。
退屈だと病気になるので、何度でも少しずつ違う歌を歌えば良いと思います。