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電子書籍『数えられなかった羊』出版

 Amazon Direct Publishingから、『数えられなかった羊』という電子書籍を出版しました。

数えられなかった羊
羊羊子
2015-02-11

 タイトル通り、このブログの内容をまとめたものです。といっても、選んだ記事を大幅に加筆修正しており、タイトル以外ほとんど丸々書きなおしているものも多々あります。タイトルも違うものもあります。まぁ、それだけ考えずにブログを書いていたということでしょう。
 このブログ同様、言語・音楽・信仰・精神分析などが入り乱れたかなり横断的というか、何の本なのか説明しにくい変な内容です。ここにある文章を気に入って下さっているような方には、面白い内容になっていると思います。そういう人が地球上で何人くらいいるのか怪しいものですが。
 個人出版された電子書籍は100円から300円くらいのものが多いようですが、とりあえず880円にしてみました。廉価な電子書籍は2万字から3万字くらいのリーフレット的なものが多いようですが、この本は約23万字と、一般の紙書籍よりも多いです(新書で10万~15万文字くらいらしいです)。ここは分割して細かく売る方が電子書籍的には正解なのかもしれませんが、面倒くさいのでこのまま出すことにします(笑)。
 宣伝ですが、Kindleを使っていらっしゃらない方は、この機会に是非試してみてやって下さい。わたしはタブレット端末にKindleアプリを入れて使っています。割りと紙媒体フェチなので、最初の頃は電子書籍などで読む気が全然しなかったのですが、慣れると結構便利です。特に洋書を読む時、簡単に辞書を引けるので非常に楽になりました。

 以下、「はじめに」の部分をそのまま収録します。

##

はじめに

 この本は、ブログ「数えられなかった羊」から、いくつかのエントリを抜き出し、大幅に加筆・修正を加えてまとめたものです。
 数年前に書籍化の話があり、その時に一度エントリを選出し、多少整理の作業を行っていたのですが、そのまま企画は立ち消え。その後すっかり放置していたのですが、今回、ほんの思いつきで電子書籍として個人出版してみよう、ということになりました。
 そこで改めて選んだエントリを読み返してみたのですが、既にかなりの時間が経っているせいか、正視に耐えないというか、到底今の自分の考えとして出したくないようなものが大量にあります。当初選んだものから更に絞り込んで、かなりの加筆・修正を加えています。タイトルだけは元の記事と同じで、中身はほとんど書きなおしているものもあります。それでも、黒歴史が少し漂白されてグレーになったくらいです。
 こんなグレーのものを出してしまっていいのか、誰が得するのだろうか、とも思うのですが、納得行くまで作業しようとすると、その間に最初に納得したところがまた気持ち悪くなってきそうなので、諦めてグレー歴史のまま出してみることにしました。
 記事には「ですます」調のものと「である」調のものがあり、ブログでは意図的に使い分けていたのですが、面倒くさいので統一せずにそのまま収録してあります。「である」調の暗くて偉そうな文章は、大体「もっと信仰のはなし」のパートに入っています。
 概ね最初の方に収録してある文章が、個人的には気に入っているものです。あまり「宗教色」を濃くしたくなかったのですが、至る所に滲み出しているのでこれも諦めました。

 言い訳ですが、わたしは年々、書かれたものというのを信じなくなってきています。
 幼い頃から読書漬けで、手当たり次第に読んでは自分自身でも訳のわからないものを書き散らかす、という「読み書き中毒」として育ったのですが、年をとるにつれて書き言葉というものがどんどんどうでも良くなってきました。いや、どうでも良いことはないのですが、わたしが余りに「読み書き中毒」として歪んだ人格形成をしてしまったので、バランスを取る意味で必死で「読まない・書かない・信じない」ようにしてきた、ということでしょう。今思うと、あの膨大な読書時間を筋トレに使っていれば、ずっとまともな人間に育っていたと思います。
 書き言葉の世界にどっぷり浸かっていると、文字の世界は顔の見える生身の人間の世界に比べて純粋で美しく、尊いような気がしてきます。書かれたものが、書いた人間とイコールであるかのような幻想が生まれます。しかし実際に、書いた当人に会ってみると、当たり前ですが文字のように美しくはないことがほとんどです。人間の方は人間の方で、違った魅力があることもままありますが、人間は人間、文字ではありません。まったく常識的なことなのですが、「読み書き中毒」として育った人間には、最初はこれがなかなか辛い体験でした。
 書かれたものというのは変わらないもので、言行一致とか信念を貫き通すというのは、尊いことのように見えます。実際、一般的・常識的な尺度で言えば、美徳の範疇にあると言って良いのでしょう。
 しかし人間というのは書かれたものと違って変わっていくもので、書かれたもの程筋道立っているものでもなければ、徹底したものでもありません。そちらの方が、生き物としてマトモです。言行一致というと聞こえは良いですが、余りに一致している人間は要注意です。類まれなる天才のこともありますが、カルト的サイコ人間とか、単なる融通の効かない人間であることの方がずっと多いでしょう。本文中でも触れていますが、言語は基本「さえずり」です。意味とか一貫性に囚われると、大概不幸になります。
 書記というのは、ほんの一昔前までは、現代におけるコンピュータのプログラム等と一緒で、限られた人々の操る「技能」の世界だったでしょう。技術は技術でしかありませんから、書き手の人格をそのまま映すものなどでは全くありません。もちろん、完全に無関係という訳ではありません。プログラムにだって書き手の「人間性」が多少なりとも表れる訳ですから、文章だって同じ程度には書き手と繋がっているでしょう。でもその程度です。素晴らしい音楽を作る作曲家が、人としてはクズだったりすることもあるように、書かれたものの価値と書き手の価値は、基本的には別のものです。
 ところが、近代に入って書き言葉が一般化すると、書かれたものと書き手の距離がどんどん縮まっていきます。とりわけ現代では、インターネット上で誰もが好きに文章を披露できる訳ですから、まるでその言葉が書き手そのものであるかのような錯覚が生まれやすくなります。更にわたしのような「読み書き中毒」者は、書き言葉の値打ちに異常に振り回されますから、一層この幻想を深く刷り込まれてしまいます。
 でもそんなものは、まやかしに過ぎないのです。書かれたものは、単なる技術の結果であり、コンピュータのプログラムや楽曲程度の意味しかないのです。いや、それはそれでもちろん尊いことではあるのですが、書き手そのものとは基本的に別物です。
 書かれたものの九割は「方便」です。残りの一割くらいに、ちょっと本音が漏れています。大体、それくらいの塩梅ではないかと思っています。
 ですから、ここにまとめた文章についても、九割「方便」で、お風呂でフンフンと鼻歌を歌っていたら、なんだかイイ感じなのでそのまま楽譜に起こしてみた、といった程度のものです。鼻歌が素晴らしくても歌い手が立派な人物かどうかは分かりませんし、逆にどうしようもない歌だとしても、歌い手がダメ人間とは限りません。
 まぁ、書かれたものも書き手も両方ダメ、ということもままあるので、せめてどちらか一方だけでも多少は見られたものであることを願っています。

kharuuf

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kharuuf

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