世界は意味で充溢しているが、意味に意味はない。
意味による充溢という精神病的モデルを唾棄するのは、むしろ特殊近代的な神経症的モデルにすぎない。わたしたちは、とても長い間意味によって満ちた世界を生きてきたし、今も生きている人たちが沢山いる。
問題は、意味の意味について問う神経症的視座に、十分に習熟してしまったことだ。
だから、意味の「発見」について最も重要なのは、忘却だ。
「とても忘れることなどできない」ものでも、わたしたちは忘れることができる。忘れたことを忘れてしまっているだけだ。
一番古いものを思い出すためには、ただ忘れれば良い。世界には意味があり、その意味は常に過剰である。
この過剰は、世界に対して付け加わった<わたし>の存在と丁度等価であり、また世界に運動を与えた神の意志にも等しい。
<わたし>の存在は神の意志に等しいが、<わたし>が存在である限りにおいて、象徴の経済からは隠されている。背中に書かれた文字、神が<わたし>に背負わせた意味を、わたしだけは解読できないように。
神の意志がどこにあるのか、その転移によってのみ、意味は運動している。