『謎の独立国家ソマリランド』をご紹介しましたが、高野秀行さんの本が面白いので、その後も氏の著作を片っ端から読んでいます。マンガを読むような「止められない感じ」でスルスル読めてしまいますが、気をつけないとせっかくの「オモロイ話」を読んでいく先から忘れてしまいそうで不安になります。全著作の半分くらいを読破したところです。あとすこしで全著作読破です。
高野さんの作風はジャーナリスティックではないし、学術的公平性にも欠けるところがあるでしょうし、地域研究などを専門とされる方などには、批判的に見る向きもあるかもしれません。ですが、少なくともエンターテイメントとしてはとてもよく出来ていますし、読ませる演出、という意味で、文章のとても上手い人だと思います。ただドタバタにバカをやって盛り上げる、というのではなく、時々どきっとするような不思議な切なさを誘う表現が見られます。
高野秀行さんの本の面白さは何だろう、と考えると、胡散臭さ、というところにたどり着きます。
高野氏が胡散臭い、という意味ではありません。
高野氏が追い求めるものが、常に胡散臭いのです。UMAなどは典型ですが、本当に胡散臭いのは、UMAそのものというより、その周りに群がる様々な欲得にまみれた人間模様です。
ただ、高野氏も闇雲にインチキ臭いものを求めているわけではなく、胡散臭さの中にかいま見える真実に惹かれているように見えます。それも、玉石混交の中にキラリと光るものがある、とかいった話ではなく、ただただ胡散臭いものの、その胡散臭さ自体の中に、自ずと真理が浮かび上がってくる、というようなリアリティです。
高野氏自身も世間的には「胡散臭い人」になるのかもしれませんが(すいません)、多分、人柄としては結構大人しくて普通な人なんじゃないでしょうか。本人も中高生時代は真面目な優等生タイプだったと書いていらっしゃいましたし、「普通さ」をベースに持っているからこそ、胡散臭いものに対して適切なツッコミが入れられるのでしょう。両方ボケでは旅だったまま帰ってこられません。
今まで読んだところで、勝手に「高野秀行ランキング」を作ってみようと思ったのですが、正確に順番を付けるのは難しいので、もう少し大雑把に☆をつけていく形にします。前に付けた☆と食い違っているところもありますが、気まぐれなのでスルーしてやって下さい。他の本を読んだら随時追加していくかもしれません。
(2014年8月14日『怪しいシンドバッド』『怪魚ウモッカ格闘記』追加)
(2014年8月23日『ミャンマーの柳生一族』『腰痛探検家』『アジア未知動物紀行』『アジア新聞屋台村』『未来国家ブータン』『辺境中毒!』追加)
謎の独立国家ソマリランド 高野 秀行 本の雑誌社 2013-02-19 ☆☆☆☆☆ |
やはり、このソマリランドがナンバーワンです。
内容については以前のエントリをご覧下さい。
ワセダ三畳青春記 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2003-10 ☆☆☆☆☆ |
ソマリランド本を除くと、この『ワセダ三畳青春記』が傑作です。大槻ケンヂ氏が「『男おいどん』等と並ぶ貧乏下宿ものの傑作」と評しているらしいですが、それも分かります。この一作を読んで、高野氏が単にメチャクチャで行き当たりばったりな「探検家」なのではなく、「文章が上手い」人なのだと実感しました。高野氏がいかにぶっ飛んでいるとはいえ、世の中には物凄い冒険をしているバックパッカーが結構いるものです。ただ「凄い旅をしている」というだけで、面白い紀行文が書ける訳ではありません。
本書は、高野氏が22歳から33歳まで暮らした古アパートを舞台とした物語で、とにかく奇人変人しか出てきません。わたしも、若かりし頃はかなり奇人に囲まれていた方でしたが(わたし自身も含めて)、ここまでバカをやる人はそんなにいません。
チョウセンアサガオでトリップしようとして十五時間意識不明になったり、本気で三味線ひきになろうとしたり、「ゴキブリの歩く音がうるさい」という隣人がいたり、とにかく笑えるエピソードの連続ですが、やはりいちばん素敵なのは大家さんのおばちゃんのキャラです。特に、ネコがイワシを盗むのに、一匹では開けられない筈の戸を「二匹で開けた」という推理には笑い転げてしまいました。
しかし、本書で一番胸に響くのは、この「野々村荘」のメンバーが、次第に年齢を重ね、失速していく風景が描かれていることです。わたし自身、変なサブカル界隈などで青春を過ごしてしまった駄目な人なのでよく分かるのですが、二十五歳も過ぎると段々と勢いだけでは回らなくなり、一人また一人と「カタギへと脱落」していくのです。その「落ちた」先の「カタギ」の世界というのも、それはそれで実は別段悪いものでもなかったりするのですが(というかそっちが正しい)、残された方がますます不安がつのり、焦燥感だけが増していくのです。
著者自身が野々村荘を卒業するエピソードは、まだ甘酢っぽい恋の物語なので救いがあるのですが(でもこれが三十三歳の話で、しかもこうして本に書いてしまう、というところが高野氏の恐ろしいところです。読んでる方がくすぐったくて転げまわりそうです)、司法試験浪人のケンゾウさんが遂に去っていくところは、本当に切ないです。
夢も野望もロマンもなくても、人間は生きていて良いのですが、大きな物語に乗ってひたすら生きてきた人は、もうその波から降りて泳ぐという選択肢が思いつきません。波の勢いはとっくに衰えているのに、引っ込みがつかなくなってしまうのです。そういう人が、いよいよ波から降りて冴えない人生を歩みだすのも、それはそれですごく立派なことで、ある意味、ただひたすら波に乗って行くのと同じくらい輝いていることなのですが、本人が受け入れるのには時間がかかります。
わたし自身も含め、何らかの理由で「就職しなかった」系の人たちは、是非一読して、一緒にのたうち回って下さい。名作です。
アジア未知動物紀行 ベトナム・奄美・アフガニスタン 高野 秀行 講談社 2009-09-02 ☆☆☆☆ |
この『アジア未知動物紀行』は、ベトナムの猿人「フイハイ」、奄美の妖怪「ケンモン」、アフガニスタンの凶獣「ペシャクパラング」の三つの章から構成されているのですが、「ペシャクパラング」が比較的長く全体の半分近くを占め、内容的にも前二者とは趣が異なります。フイハイとケンモンは「妖怪」的要素が強い、つまり未確認動物(UMA)というよりは民話的なものに近いのですが、ペシャクパラングは人を襲う凶暴性を持ち、かつ何らかの生物は実在した匂いが濃いです。高野氏はフイハイが「どうも妖怪の類らしい」と気づいて一度はガッカリするのですが、「未知動物と妖怪の境界線を探そう」と気を持ち直しています。
この時点で、この本を通底し、また高野氏の他のUMA探求とも通じる面白みの一端が表れています。それは「妖怪ならざるものとしての未知動物」ということです。
おそらくは妖怪の類も、かつては未知動物だったのでしょう。何を言ってるのか意味不明かも分かりませんが、かつては河童や座敷童、あるいは「人を化かすキツネ」というものも、未知動物程度にはリアリティを持って機能していた筈だ、ということです。どんな文化にもこうした「ちゅうくらいの実在」が存在し、それが人と人をつなぐ媒介項のような役割を果たしています。確か『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の中で、「人を化かすキツネ」の消滅とテレビの普及が関連付けられているところがありましたが、逆に言えば、現代におけるテレビ的な媒介者として、こうした「ちゅうくらいの実在」が機能していたわけです(そういえば、芸能人というのもちょっとUMAっぽいところがあります。ほとんどの人は実物を見たことがないけれど、「○○で見た!」という話が伝わってくることはあるし、様々な側面を持ちながら共有されており、かつ人々の実生活には直接関係ありません)。
ところが、近代化の進行によってどんどん世界が狭く明るい場所になり、妖怪はすっかりキャラクター的なものとして安全に消費されるようになってしまいました。果ては「町おこし」に利用される始末です。こうして妖怪や人を化かす狐が陽の光を浴びて干上がってしまったところで、UMAはかつての妖怪の持っていたようなリアリティ、手触り、恐ろしさ、胡散臭さというものを引き継いでいる面があります。UMAファン自身は「UMAはそんなフォークロア的なものではなく、科学的にアプローチ可能なものだ」と主張されるかもしれません。しかし彼らの求めているものは、明らかに単なる「未知の動物」ではありません。未知というだけなら、例えば新種の昆虫など、南米でも探検すればまだまだ発見可能でしょう。しかし未知動物の面白さは、そんな地に足の着いたところにあるのではありません。一見「科学的」だけれどよく見ると胡散臭い、そこが魅力なのだろうと思います。
それを傍から見て(わたしのように)ケラケラ面白がっているだけだったら、まぁ「と学会」的な趣味と似たようなものな訳ですが(それが悪いということではありません)、高野氏の凄いところは、胡散臭いものを胡散臭いままに引き受けて、生身で突撃していくところです。中に入ってみると、外からは明瞭に見えた実在と非実在の境目が模糊としてきて、かつての妖怪のような、曖昧で不気味な世界が立ち上ってきます。高野氏が別のところで(この本だったかもしれません)、ジャングルの中に立ち入ると、外からはなんてことのない森だったものが永遠に続く密林に見えてくる、というお話をされていますが、「胡散臭いもの」のリアリティというのは、こうした「視界の悪い」、地べたに張り付いたところで浮かび上がってっくる「見え」そのものようにも思います。
さて、本書で個人的に一番面白いと思ったのはペシャクパラング。他二者と異なり、少なくとも「何か」は実在したらしいUMAです。
まず、舞台がアフガニスタン。今世界で最も「あぶない」エリアに苦労して乗り込んで、探すのが怪獣、というのが、高野氏らしくて和みます。しかも死体を目撃した日本人Yさんとなかなかコンタクトがとれません。Yさんとは結局会えずじまいで、Yさんの方が未知動物のようになっていきます。
断片的な情報を便りに探すうちに、狂犬病に罹患したマングースではないか、という説が浮上しますが、確証はありません。その過程で「背後に米軍がいるのでは」という陰謀論めいた話が出てくるのですが、これがあながち妄想でもないかもしれない、という流れになります。全体として、あくまで胡散臭いけれど、民話とも違う、距離感が絶妙な一篇になっています。
冷静に読み直して見ると、旅先で読んだ『実録・アメリカ超能力部隊』からの連想や、ガイドの青年が「恋する青年」でやたら世間知らずとか、ペシャクパラングとは直接関係ないことに結構紙数が割かれているのですが、実際に高野氏が感じたことを書かれているせいか、自然なまとまりとして読むことができます。
ちなみに、この本は装丁がとても良いです。デザインもカワイイし、内澤旬子さんのイラストも味があってマッチしています。
全体として☆5つでも良いかな、と思ったのですが、僅差で4つにしておきます。
怪獣記 (講談社文庫) 高野 秀行 講談社 2010-08-12 ☆☆☆☆ |
トルコ東部のワン湖に怪獣ジャナワールを探しに行くお話なのですが、まずそもそも、ジャナワールそのものには高野氏はそれほど興味も持っておらず、信じてもいません。
一方、ジャナワールをめぐる情報には胡散臭さがあふれています。ネット上にある動画はいかにもフェイク、ジャナワールに関するトルコの書籍には目撃者が顔写真から電話番号まで掲載されている。しかも著者はイスラーム主義者らしい。
現地を訪れてみると、ジャナワール騒動にはクルド人問題が関係しているらしいことがわかってきます。いかにもインチキ臭いジャナ目撃者たちは極右政党の関係者。ほとんどの住民はジャナワールと聞いてもケラケラ笑い転げるだけですが、常に一定数はいる本当に「見えてしまう」タイプの人たち(いわゆる「霊感がある」タイプ)、利用されたまま捨てられた辺鄙な村の人々、そして一名ながら、どうも本当に見たらしい老人。そして遂に、高野氏ら自身が謎の物体を目撃!と、最初から最後までひたすら胡散臭い話の連続です。
この本の興味深いのは、UMAが政治問題に絡んでくること。このトルコの「少数民族問題」については、本書「文庫版へのあとがき」でも触れられていますが、小島剛一氏の著作をあたるのが一番です。『トルコのもう一つの顔』と『漂流するトルコ』、両方とも傑作中の傑作です。小島先生は人類三十年に一人クラスの超人ではないかと思います。今は高野氏には批判的で、色々揉め事になっているようですが・・。
演出力と怪しい人間模様だけで最後まで行くのかと思ったら、ラストでいきなり「ムベンベ再び」のような肉弾戦に入るところも素晴らしいです。
この本では高野氏のエンターテイメント的文章力、連載マンガのような引きの作り方などが、いつもにもまして冴えています。連載だったら次号も買わずにいられない作りです。
また細かいところでは、飲めると思ったビールが飲めなくて「プラスチックの燃えかすみたいな気分で眠りについた」などといった表現も印象的です。隠喩や喩え話の上手い人は話の上手な人でしょう(それで上手いこと言いくるめられている気もしますが)。
一つ小さな難点を言えば、「怪獣記」というタイトルはシンプルすぎて、ちょっともったいなかったのではないでしょうか。例えば単純に「トルコ怪獣記」とするだけでもグッとインパクトが出てくると思うのですが。「怪獣」だけでは、高野氏の読者以外にとっては何の本なのか分かりませんが、「トルコ」と「怪獣」をくっつけるだけでも見る人に「アレ?」という違和感を抱かせますし、自ずと注目度も増し、5%くらい売上が伸びた気がします。
世にも奇妙なマラソン大会 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2014-04-18 ☆☆☆☆ |
ソマリランド本のエントリでちらっとだけ触れましたが、本書には表題作となっている西サハラでのマラソン大会参加のお話、ブルガリアでバイセクシュアルの男性に迫られた?お話、インド入国のために改名を試みるお話、の三本が収められていて、これにプラスして、ショートショート級の「不思議なお話」を七編まとめた章が収録されています。
初めにちょっとネガティヴなことを言うと、ブルガリアのお話については、ちょっと複雑な気持ちになります。どうもジェンダー・セクシュアリティ周りについては、高野氏はちょっと無神経に過ぎ、(悪意なく面白い話として語っているのはよく分かるのですが)読んでいてあまり気分の良くないところがあります。まぁ、この辺を気にしすぎても長所が殺されてしまうかもしれず、微妙なところかとは思うのですが、そういう感じ方をする人も(それなりに)いる、ということは、ちょっと気に留めてもらえると嬉しいです。
さて、本書の中でわたしが気に入っているのは、長い三本のお話よりも、最後の短篇集。これが不思議な怪談集のようで、とても気になります。特に著者と奥様がタイで経験した「怪奇現象」は、氏自身の体験談ということもあって、実に恐ろしいです。「何か」を感じたという奥様の話を詳しく伺ってみたいです。
また、この短篇集の冒頭にある「ペルシア商人」のお話は、怪談的なところはなく、ただ怪しいペルシャ人が若い筆者に法螺話を聞かせるエピソードなのですが、別段ボッタクリでも詐欺でもなく、ウソをつくことでこのペルシャ人が何一つ得をしていない、というところが不気味です。
こういうウソを、誰だったかが「零度の嘘」と呼んでいました。「お昼何食べた?」と聞かれ、本当はカレーを食べたのに、「牛丼」と答えるようなウソです。そのウソによって、プラスもマイナスも一切ないウソ。悪意あるウソよりずっと怖いです。
ただ、このエピソードの中でペルシャ人の語っている「英語観」だけは、100%同意します。というより、わたしはずっとこういう考え方をしていて、当たり前だと信じているのですが、あまり同意してもらえたことがありません。
(ネイティヴの英語が分からないことをコンプレクスとしている高野氏に対して)
「君の考えは間違っているよ。君は英語を十分に喋れる。だって、見なさい、私たちはもう一時間以上もずっとお喋りしている。それで百パーセント完璧に通じているじゃないか」
「それはあなたがネイティヴじゃないからですよ」私は抗弁した。
「ネイティヴ? そんなものに何か意味があるのかね? なぜ私たちが英語で話をするのか。不思議に思ったことはないかね? 私たちはともにアジアの人間だ。アジア人同士がどうしてヨーロッパの言葉で話さなければならない?」
「……」
「それはね、英語が国際言語だからだ。イラン人には日本語がわからない。日本人にはペルシア語がわからない。だから、私たちは英語を使う。それは日本人とイラン人だけじゃない。インド人とイラン人でもそうだし、日本人とドイツ人だってそうだろう。聞くところでは日本語と中国語はだいぶちがうから、やっぱりビジネスをするときは英語を使うそうじゃないか。
(…)でも君はアメリカ人やイギリス人の言うことがわからないという。それは君のせいじゃなくて、彼らのせいだ。彼らの喋っている言葉は方言なんだよ。アメリカ人の英語はアメリカ方言で、イギリス人の英語はイギリス方言。それは世界標準ではない。私たちが今話している英語こそ、世界の誰でも理解できる世界標準の英語なんだ。アメリカ人やイギリス人が私たちを見習う必要はあるが、その逆はない」
こう引用してみても、全くもってその通り!と思うのですが・・・。
ちなみに、わたしもネイティヴの英語が一番イヤです。「ネイティヴっぽく」喋ってみようとすると(できませんが)、そんな自分にサブイボが立ちそうです。アラブ人の英語の方がずっと泥臭くて自分の身体に近い感じがします。
アヘン王国潜入記 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2007-03 ☆☆☆☆ |
「ゴールデントライアングル」のミャンマー、ワ州の農村に半年以上滞在し、アヘンを製造するケシを栽培する、という、前代未聞のドキュメンタリ。とはいえ、高野氏自身も仰るとおり、ケシ栽培は純然たる農業であり、農村での日々の生活は特段ドラマティックなものではありません。そこが逆に生々しく、興味をそそります。
高野氏の「冒険」は、どれも無茶苦茶で到底真似できないようなものばかりですが、この本を読んでいてわたしが一番「これは大変、ムリ」だと思ったのは、シラミに住み着かれて体中が湿疹になる、というところです。電気がないとか水道がないとかより、これが一番キツそうでした。
一番笑えたのは、最後の宴のために牛を用意しようとして、その牛の暴走に危うく跳ね飛ばされそうになるところ。屠る予定の牛にあわや屠られそうになる、という場面です。
高野氏が自身の「背骨」となる作品、と言うだけあり、濃密な内容なのですが、文章のテンポは少し固く、最近の作品のような飄々とした調子はまだありません(『西南シルクロードは密林に消える』が文章技術的には転換点になっている、とわたしは読んでいるのですが)。その分、やった内容の大変さの割に少し損してしまっているところがありますが、逆に言えば高野氏が成長していっているということで、長い目で見ると良いことかと思います。
また、本作品には多くの村人が登場し、巻頭にも「主な登場人物」の一覧があるのですが、ワ人の名前は日本の一般読者にとってはかなり覚えにくいです。著者としては、文章の力だけでムリなく印象付けたかったのでしょうが、やや邪道でも、似顔絵か何かでキャラクター紹介があっても良かったかと思います。
おそらく、高野氏自身もこの辺は自覚しているらしく、その後の作品では人物に積極的にアダ名をつけて繰り返す、執拗に描写を反復する、といった手法が見られるようになります。『ミャンマーの柳生一族』ではミャンマーの政治を江戸時代初期になぞらえて説明しており、『ソマリランド』でも氏族に源氏や平家といったアダ名を付ける演出をしています(『ソマリランド』に限って言えば、個人的には今ひとつこのやり方は好きではなかったですが、苦肉の策だというのはよく分かります)。
文章的には☆三つかな、と思ったのですが、高野氏の「背骨」でもあるし、四つにしておきます。
西南シルクロードは密林に消える (講談社文庫) 高野 秀行 講談社 2009-11-13 ☆☆☆☆ |
中国四川省からインドのカルカッタまで陸路で踏破する物語。高野氏がインドに入国できなくなった原因ということです。
この本もハプニングにつぐハプニングで面白いのですが、本格的に状況が走りだすのはビルマ(不法)入国あたりからです。中国国内にいる間は、移動もスムーズで、それほどドラマティックでもありません。
高野氏もその辺りは分かっているから、ビルマ国境を越える際のスリリングな場面をプロローグに持ってきて、「話は遡ること・・」という風に時間を巻き戻して中国でのスタートから語り出す、という形式にされたのでしょう。
ビルマ領に入ってからはどんどん面白くなり、さらにインド領(不法)入国から更に面白くなります。終盤に向けてグイグイ引きこまれていくのですが、これは実際の高野氏の旅程上、エキサイティングな状況が増えてきた、というのもあるでしょうが、高野氏の筆致が後半に向かって冴えていっているように感じます。前半は文章が少し固いのですが、後半は最近の高野氏の文章から感じられるようなノリノリ風になってきています。文章技巧的には、この本が高野氏のスタイルの転換点になっているのではないでしょうか。
欠点としては、登場人物が非常に多く、常に移動中なため「今誰とどこで何をしているのか」が混乱しがちです。巻頭に簡単な地図はあるのですが、それだけではなく、本文中にも「現在地」を示した地図やイラストなどをマメに挿入し、イメージし易くしてあげた方が、一般読者には親切だったように思います。
興味深かった点をいくつか挙げると、まず、カチンのナッ(精霊)信仰。
彼らは敬虔なクリスチャンなのですが、同時にアニミズム的伝統宗教の影響が色濃く残っています。面白いのが、明らかにナッ信仰を気にしていながら、「あなたたちはクリスチャンではないのか、ナッを信じているのか」と尋ねると「いや、ナッなんて迷信だ、神はひとつだ」と返すところです。頭ではナッを否定しているものの、長年受け継がれ、言語・習慣のレベルで染み付いているものを拭い去ることができない。この感じが、いわゆる「日本的無宗教」に通じるものがあるようにも感じられます。言葉の上では「無宗教」と言いながら、「宗教的」エッセンスが至るところに入り込み、振り払うこともできない、ということです。
インドでナガランド州の独立運動、反政府ゲリラに武器を供与しているのが他ならぬインド政府らしい、というのも面白いです。政府が反政府ゲリラを支援するとは意味が分かりませんが、ゲリラ同士を仲間割れさせ、内ゲバに向かわせることでコントロールしているようです。
気になる登場人物としては、カチンの「窓際少尉」。十二歳でカチン軍に参加し十八年間務めてきたものの、今ひとつ部下にも大事にしてもらえていない少尉さんですが、この人のドラマの無さというか、華のない感じが生々しいです。
しかしなんといっても、エピソードとして一番興味を引くのは、高野氏が学費援助することになったサン・オウンです。「文庫版へのあとがき」には、後日談として、その後サン・オウンを襲った波瀾万丈の人生について綴られているのですが、もうメチャクチャすぎて、辺居作家も真っ青です。正直、このサン・オウンの物語の方が、高野氏らの珍紀行より冒険譚として勝ってしまっています。これだけで一本小説が書けます。是非、文庫版を買って楽しんでみて下さい。
腰痛探検家 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2010-11-19 ☆☆☆☆ |
酷い腰痛に悩んだ高野氏が、様々な民間療法から整形外科、心療内科までを渡り歩く腰痛治療記。
ここで身体に向かう、という感じが非常に分かってしまうというか、他の本を読みながら「高野さんは身体論的なものにハマらないのかなぁ」と思っていたら、別の方向でハマっていた、という符号がありました。
高野氏を評価されている大槻ケンヂ氏も、元々オカルト好きだったのがノイローゼになり、武道・格闘技に向かっていた時期があります。個人的に、両氏とも素晴らしい書き手だと思っているのですが、そういう自分も心気症的なところがあり、かつそれなりの期間武術的なものに関わっています。また信仰行為についても、「音」や「立ったり座ったりすること」が、「信念体系」的なものより遥かに重要だと考えています。「変なもの」「違うもの」「オカルト一歩手前」へ向かう性向と、身体に向かう性向というのは、まったく通底しています。身体というのは、なまじ物理的に実在しているため、客観的で確かなものに見えるのですが、身体論というのは誠に迷宮で、魑魅魍魎の蠢く世界です。武術系の雑誌と『ムー』に似たところがあるのが証左でしょう。この「まるっきり観念的なものでもない」感じが、「妖怪ならざるものとしてのUMA」にも通じます。「胡散臭いけどちょっとだけリアル」なところも一緒です。
また、高野氏が様々な民間療法を渡り歩きながら、自分から(効かない)治療者をフォローしてしまったり、移った先で前の治療法を弁護するようなことを口にしてしまったりする姿は、精神分析的にもある種「典型的」で、最後にブチ切れるところまで含めて一つの分析的セッションとして読むこともできます。『ウモッカ』も、その足跡全体がアート的に昇華されるところまで行っていましたが、この『腰痛』も神様の作った楽曲のようです。ラカンの読者には是非この本を手に取ってもらいたいです(笑)。
本書で特に印象的だったのは、エピローグにあった次の下り。
肝心なことは、何か心身に不具合が生じたとき自分をリセットできる場を持つということだと思う。私は「痛くなったら泳ぐ」というパターンをつくった。泳げば治るまでいかなくても、いつもの状態にリセットされるわけだ。あるいはただそう「信じている」だけかもしれないが、信じることは重要だ。
(…)
リセットの場をつくったら、そこから少しずつ遠くに出かける必要がある。というのは、一つの治療院や先生に頼ると、それがなくなったときに困るからだ。
これに感心したのは、武術関連の文脈で非常に似た教えを受けたことがあるからです。リセットというか、「基準点」です。
人間の身体というのは、目に見えて触れるものなだけに「物理的で確かなもの」のような気がしていますが、その身体を内側から操る感覚そのものは、外から見て確かめることの出来ないもので、むしろ「心の状態」にも近いです。この部分は、日常的には特に意識もしませんし、それが故に上手く行っているのですが、不調に陥った時や緊急事態には、意識すればするだけ何がなんだか分からなくなるものです。なぜなら、感覚の世界には基準になる座標軸がないからです。わたしが受けたのは、そこに原点になるようなポイントを作ること、それを確かなものにしたら、その原点を維持したまま、あるいは原点との距離感を保ったまま、様々な動作に展開していく、というものでした。高野氏の言う「リセット」にも似たようなところがあるように思います。
異国トーキョー漂流記 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2005-02 ☆☆☆ |
日本在住の外国人との交流を通じ、異国としての「トーキョー」を再発見する、そんな内容の短篇集です。
前のエントリで書いた通り、人物として一番魅力的なのは盲目のスーダン人アブディンさん(本書ではマフディの名で登場)なのですが、ストーリーとして改めて見返してみると、著者が最初にフランス語を習ったシルヴィの話もなかなかです。高野氏がまだムベンベ探しに旅立つ前のお話です。
彼女は、丁度インドで「沈没」している日本人バックパッカーのように、日本で当時「沈没」していたアート系外国人の一人なのですが、そのグダグダした日々の中で、高野氏の超やる気のないフランス語講師を務めます。その後、彼女はフランスに帰り、パリで高野氏と再会するのですが、その時の彼女は日本にいた時のような「探求者」の顔ではなく、ただもっとリラックスして、自然体になっていたようでした。
この辺がちょうど、『ワセダ三畳青春記』後半のような、「変なものに青春を捧げた人が、徐々に失速しながらも自然な自分自身を見つけていく」物語として読め、切ない気分になります。
なんというか、ほんとに他人事ではないのですが・・。
幻獣ムベンベを追え (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2003-01 ☆☆☆ |
記念すべき高野氏のデビュー作ですが、文章技法的には固く、最近作ような飄々とした感じはありません。当初はそれなりに真面目に「紀行文」としてまとめようとされたのかと察します(いや、ご本人らが大真面目なのはよく分かっていますが)。もともとは早大探検部のクレジットで書かれたものらしく、特に前半は、基本的には探検部としてのレポートのような雰囲気です。
『ムベンベ』で個人的に一番印象に残ったのは、前のエントリでも書きましたが、目的地であるテレ湖到着早々にマラリアにかかり、それからの滞在中ずっと高熱にうなされつづけ、さらに40度近い熱が下がらないまま村へと徒歩で帰った、という田村修さんという隊員の方です。一人暮らしで風邪をひくだけでも心細いのに、湿地帯を三日縦走する以外に最寄りの村へのアクセス手段もないアフリカの湖でマラリアに苦しめられるというのは、どれほどの苦行でしょうか。想像するだに恐ろしいです。
「文庫版へのあとがき」では、その田村さんが寄せた文章が引用されています。
「私はテレ湖での滞在期間の大半がマラリアだったわけだが、その間、先輩たちから励ましの言葉ややさしい言葉を受けたことはほとんどない。『病は気から気から』という言葉は何度となく浴びせられたし、『マラリアなんてのは全く怖くない病気だ』などとも言われた。さらに『田村は線が細いからマラリアになったんだ』など本当に人間不信になる沢山の言葉を受けた。(中略)告発とか恨みとかで言っているのでは決してない。(…)ただ、先輩や人間関係に対する絶望感、そしてその状況で考えたことが私にとっての『ムベンベを追え』の全てだったと思うのだ」。
田村氏は、この絶望的な状況の中で、何が自分にとって絶対的なのか、と考えます。氏の答えは、ここで助けてくれるものがあるとしたら両親で、逆に自分が命を犠牲にしても守るものがあるとしたら家族であろう、と考えます。
「絶対的なものがあるとすれば、それは仕事や夢といったものではなく、人間関係であり、そのコアにあるのが家族なのだ。(中略)愛する人と結婚して子供ができ、幸せな家庭をつくるということは平凡だが、それはこのテレ湖には存在しない絶対的なものだと思った」
これほどの極限状況の中でたどり着いた考えだとしたら、それはやはり、田村氏にとっての真理なのではないかと思います。
ふと気になって、氏の名前で検索してみると、現在はJR東日本で働いていらっしゃるようです。
【旬 People】自販機不況の中、前年比130%増 田村修さん – 政治・社会 – ZAKZAK
河合塾グループ/Vol.55 (2013年1月公開)/2013年/「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-/河合塾グループについて
まぁ、ここまでの経験をされたら、その後何があっても怖くはないでしょうね・・。
イスラム飲酒紀行 (講談社文庫) 高野 秀行 講談社 2014-07-15 ☆☆☆ |
これについては、ラスト近くにある、バングラデシュのミャンマー国境付近にあるチッタゴン丘稜のエピソードが一番心に残りました。ここは表題に反して仏教徒の住むエリアです。紆余曲折の末、ある仏教徒の家でお酒にありつくことができるのですが、ここで次のような展開となります。
(…)バイさんがふと「私にはわからないよ」と言った。
「何がです?」
「私たちの宗教では酒を厳しく禁じている。なのに、どうして私たちは酒を造って飲んでいるのだろう?」
一瞬、わたしはイスラムの話かと思った。だがそんなはずはない。彼は仏教徒なんだから。そして、次の瞬間、思わず「そうなんですよ!」と大声を上げてしまった。
そうなのである。
仏教は酒を禁止している。
上座部仏教の戒律は決して厳しくない。出家したら二百日十七もの戒律があるが、一般の信徒はたった五つだけだ。「五戒」と呼び、上座部仏教だけでなく、日本も含めた大乗仏教でも基本中の基本とされている。うち、四つはこうだ。
・殺してはいけない
・盗んではいけない
・淫らなことをしてはいけない(不倫などを指す)
・嘘をついてはいけない
戒律というより「常識」に近い。そして最後の一つがこれだ。
・酒を飲んではいけない。
なんと、人間として生きる上で最低限守らなければいけないことに「禁酒」があるのだ。酒を飲むというのは、殺人や不倫や盗みや詐欺と同レベルの「悪」なのだ。
イスラムでも酒は原則禁止だが、コーランのある箇所では「酒に酔ってお祈りをしてはいけない」と記されており、「何が何でもいかん!」というほどの迫力ではない。少なくともコーランには「豚肉を食べてはいけない」とか「コーランや使徒ムハンマドを侮辱してはならない」など、もっと強い禁忌がいくつもある。
つまり、本来は仏教のほうがイスラムより酒に対してはるかに厳しいのである。
これは非常に面白い下りですが、このブログで何度も言っているように、信仰を「信念体系」のようなものだと考えていると、こうした「矛盾」はサッパリ意味の分からないものになるでしょう。こうした裏表や曖昧さというものをそのまま受け止め、内側から考えた時、初めて信仰の一端に触れることになります。
怪しいシンドバッド (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2004-11 ☆☆☆ |
「西南シルクロード」あたりがターニングポイントになったと勝手に睨んでいる高野氏の文章スタイルですが、これは比較的初期の高野秀行作品。別に初期の作品が面白くない、という訳ではないのですが、最近作に比べるとメリハリが弱いところがあります。
わたしは大抵、付箋紙をやたら張りながら本を読んでいくのですが、初期作品は付箋紙を貼るポイントがなかなか「ここ」と定まりません。ずっと同じテンションで面白いことを全部詰め込もうとしているため、緩急が弱くなってしまっているのでしょう(繰り返しますが、だからといっても面白くないということは全然ないです、面白いです)。
最近作になると、年齢のせいもあるかもしれませんが、力を入れるところ抜くところがコントロールされるようになっていて、読みながら文章との距離感が変化する感じが楽しめます。初期作品の方が、旅自体も文章も「頑張って」いるように思いますが、一般読者からすると、適度に緩急があり、会話文なども適当に入っている方が読みやすいでしょう。まぁ、そんなことはプロの高野氏が一番よくご存知でしょうが・・。
気になった所としては、筆者が上海で出会った中国マニアの中国系カナダ人のお話。彼は「血」としては100%中国人ですが、英語ネイティヴで中国語は全く分かりません。中国を訪れたのも「自らのルーツを探す」といったことではなく、「単に中国の好きな一人のカナダ人として」といいます。彼についての記述で面白かったのが、「中国人が海外で生きるには、医者になるか中華料理屋になるかしかない」というフレーズ。これは文字通りのことを言っているわけではなく、要は国籍・民族を超えた知的階級に属して、中国出身であることを捨象して現地社会に溶け込むか、逆に「中国人であること」を売り物にしていくか、二者択一である、ということです。件のカナダ人青年は父親が医者で、前者のタイプに属する訳です。このように社会階層によってアイデンティティの有り様が変わってくる、というのは、大変興味深いです。
書名が思い出せないのですが、カナダでのエジプト人移民がどのようなアイデンティティを保っているのか、調査した本がありました。その中でも、カナダ社会に同化していくタイプと、「エジプト人」であることにアイデンティファイするグループ、それから無国籍ムスリム的なアイデンティティを獲得していくタイプと、いくつかのパターンがあることが示されていました。おそらく同化タイプというのは、社会階層として上流の人々だったのでは、と推測します。
それから、全くの些事ですが、アマゾンで幻覚剤を探すお話の中で、キリスト教に感化されて従来の伝統を捨ててしまった人々が登場します。高野氏はこれに対し「文化破壊」と憤っており、「アマゾンの神様だっているだろうし、何かヘンだと思わないのだろうか」と指摘されています。これは心情的にはよく理解できるのですが、それを言ったら日本における仏教だって外来のものに過ぎませんし、今現在、世界各地で伝統のような顔をして根付いているものだって、かなりのものが「舶来品」です。従来のものをまるっきり捨ててしまうというのは、他所から「その土地ならではのもの」を求めて訪れる人間にとっては「もったいない」ことですが、住民自身にとってどうであるかは別問題です。所詮文化など、移ろいゆくものに過ぎないようにも思います。
最後に「文庫版あとがき」にあった印象的な箇所を抜書きしておきます。
(…)かつてアフリカをともに旅した探検部の先輩は、アジスアベバのバスのりばでコーラを飲みながら、こんな名言を吐いた。
「高野、いいか、世の中で真に重要な情報とは二種類しかない。一つは自分の身を守るための情報、もう一つは人を元気にさせる情報だ」
さすが、私より数段上を行く人だといたく感じ入ったが、その直後、彼はなぜか飲み干したコーラのビンに人差し指を突っ込んで抜けなくなっていた。で、結局、指にビンをぶら下げて長距離バスに乗るはめになった(一時間後、途中の休憩所で石けんを借りて、なんとかはずすことができた)。
そのとき私は、彼から身を持って名言の意味を教えられた。
すなわち、一、コーラのビンに無闇に指を突っ込むのはひじょうに危険であること。二、笑うことがなによりも手っ取り早く人を元気にさせること、である。
怪魚ウモッカ格闘記―インドへの道 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2007-09-20 ☆☆☆ |
ネット上で話題になったインドの謎の魚「ウモッカ」を探しにいく、というテーマ。ではあるのですが、かなりの珍書です。
高野氏の文章が面白いのは、本当に物凄い発見をしたり、UMAを見つけたり、というところではありません。胡散臭いものの周りに胡散臭い人々が蠢き、その中で迷走するプロセスが面白いのです。ですから、「探しもの」が見つかるかどうかなどどうでも良いことではある、というか大概は見つからないわけですが、それにしても本書の「オチ」は凄いです。他の書籍などにあった断片的情報から、「オチ」自体は知ってはいたのですが、それにしてもメチャクチャな本です。これで一冊本が作れてしまうところが、高野氏の凄いところですが、モッカ氏の仰るとおり、「アートなんか超えたまったく新しいジャンル」とも言えます。カフカの『城』みたいです。
ただ、流石に分量的にもう少しタイトにした方が、まとまりが良かったようにも思います。何も起こらないでも面白いのが高野氏の冒険なのですが、後半、ちょっと文章的に頑張ってしまっている匂いもしなくはないです。それくらいしたくなってもおかしくない状況ではあるのですが。
また、わたしが高野氏の他の書籍を色々読んできたせいか、あちこちに今まで読んだエピソード、関連事項などが登場して「あ、それがココにつながるのか」という楽しみもできました。改名騒動の下りは『世にも奇妙なマラソン大会』に別のお話として詳しくまとめられています。また今回の旅でパートナーとなるキタ氏については『ワセダ三畳青春記』にエピソードがあります。
個人的には、ネット臭が前面に出すぎると安っぽい印象になるので、やはり高野氏には極力肉弾アナログな戦法で戦って頂きたいです。まぁ、見てる方は気楽なもので、何でも言えるわけですが。
ミャンマーの柳生一族 (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2006-03-17 ☆☆☆ |
時期としては『西南シルクロードは密林に消える』より後で、同書でも「通過」しているミャンマーが舞台ですが、今回は密入国ではなく合法。
私はミャンマーには二年に一回くらいの割合で行っているが、最後に合法入国したのは1994年、それ以降はすべて非合法である。
タイから入ってタイに戻ったのが二度、中国から入ってタイから出たのが一度、中国から入ってインドに抜けたのが一度。非合法にミャンマー国境を越えたことが実に八回、さらに未遂(国境の検問で捕まり追い返された)を加えれば都合十一回。
この時点でめちゃくちゃです。
ただ今回は基本的に作家・船戸与一さんのお供。政府側のガイド・護衛=監視つきの旅ですから、高野氏としてはあまり本意ではないスタイルかと思いますが、転んでもタダでは起きないところが流石です。つくづくこの人は「見せ方」が上手いのです。
そこで出てくるのがミャンマーを江戸時代の日本に、キン・ニュン一派の軍情報部を柳生一族に見立てる手法。わたしは『ソマリランド』から入ったニワカなので、日本史に例えて分かりやすく手法では本書が先行していたことは、読んで初めて知りました。この辺の喩え話は非常に上手いです。
というより、高野氏は喩え話そのもの、あるいは喩え話的な思考の走り方自体を好む人なのでしょう。この感じはとてもよく分かります。わたし自身、良い喩えをひらめいた時のシナプスがバチバチつながっていく感じを至上の快楽と感じるからです。ただ、この方法はとりあえずざっくり納得してもらうには便利な手法ではあるのですが、一方で細部を切り捨ててはいるし、「分かったようで実はちっとも分かっていない」状態に陥りやすい欠点もあります。ですから、読み手としては一端飲み込んだ上で「ホンマにそうなん?」という疑問を絶やさず反芻した方が安全です(と言いつつ、この「分かった!」感じの快感は実に捨てがたいですが)。
それから、これは高野氏の問題ではないのですが、日本史を持ち出されるのにはちょっと抵抗もあります。これは100%わたし個人の問題で、本書と関係のないただの自分語りなのですが、わたしは日本史が今ひとつ好きではないのです。正確には、日本史が嫌いな訳ではなく、漢字が苦手なのです。漢字がギュギュギュッと並んでいると、それだけで敷居が高いように感じてしまいます。書いていて「ほんまアホの子や」と思います。わたしは大学受験で、「社会科を二科目選択し、センター試験と二次試験で別の科目を使う」というトリッキーな条件があったのですが、この時も世界史を二次に、日本史をセンターに回しました。なぜなら、漢字が書けないからです。同じ理由で、好きだった世界史のうち、中国史だけは苦手でした。ついでに、センター国語の漢文も苦手でしたが、全問マークし忘れて漢文0点だったので漢字以前の問題でした。我ながらこれで合格したのは奇跡だと思います。
話を『ミャンマーの柳生一族』に戻すと、本書で印象的だったのは、ミャンマー人の「国際性」を端緒にひらめく江戸時代論。ミャンマーは、国が極めて閉鎖的な政治状況にあるにも関わらず、人との距離の取り方が上手く、外交的なセンスに長けている方が多いそうです。その理由を、ミャンマーの多様性、多民族・多宗教な環境に筆者は求めているのですが、実は江戸時代の幕藩体制日本も似たようなところがあったのでは、と指摘します。当時の日本も政治的には文字通り鎖国状態でしたが、言語等の地域差は今より遥かに大きく、とりわけ当時の知識人層は「異国の人間とのやりとり」に長けていたのでは、というのです。それが明治維新以降の日本の躍進に繋がっているのでは、と氏は推論されています。
日本に限らず、近代以前の世界は今よりずっと「広かった」筈です。つまり、同じ距離・地理的隔絶の持つ意味が現代とは全く異なります。世界が狭くなり均質化するに連れ、かえって多様性への適応力が低下する、という逆説?がここにはあります。「地上最強」でどこに行っても母語で押し通せるアメリカ人に、世界どころか自国の地理にすら疎い人がままみられることも、これに通じるように感じます。
もちろん、これだけで説明の付く話でもなく、結局は人による訳ですから、あくまで一つの切り口、ということですが。
アジア新聞屋台村 高野 秀行 集英社 2006-06 ☆☆☆ |
この本は実話をベースにしてはいるもののフィクション、小説です。なんとなく、かなりの程度事実に基いているんじゃないか、という気はしますが、それは今まで高野氏のノンフィクションばかりを読んできたせいかもしれません。
印象的だった箇所を一つ。「外国人ママ・クラブ」というグループに、外国人だけでなく日本人の母親も参加している、という下りです。ママ友付き合いに適応できなかった人たちの受け皿になっているらしいのです。
わたしは気づいた。
日本に最も欠けているもの、それは選択肢なのだ。会社でも家庭でも学校でもボランティア活動でも、日本の集団というのは価値観が著しく集約されている。その価値観から外れると、はじき出される。
集団を離れても自力でやれる強いひとはいい。だが、集団にはついていけず、かといって一人でやっていける強いひとはそう多くない。たいていの人は弱いのだ。
そういう群れからはぐれた弱い人たちの選択肢となりうるのがエイジアン人なのである。
これは全くその通り、と思う一方で、だからといってオルタナティヴなものがそうすんなり上手く行くわけでもない、と色々考えます。その「外国人ママ・クラブ」にすら適応できない人もいる、というのもありますが、もう一つ、自分自身を振り返って考えると、結局、自分がいちばん不寛容なのです。いえ、単に適応に難があるだけで、自分や他人を許せている人はこの方法で良いのですが、世の中には一定数、自分や他人を許すのが非常に下手な人がいます。そういう人は、たとえ他人が「気にしない」ようにしてくれたとしても、自分で自分を許可できませんから、結局馴染むことなどできないのです。個人的な関心事はむしろそちらにあるので、なんとなくこれもフワフワした羨ましい話だな、という風に受け止めてしまいました。まぁ、そんな人はあまりいないと思いますが・・。
ちなみに、末尾近くで妊娠した某女性キャラ(誰かは伏せておきます)が、「誰の子供なんだ!?」と詮索する周囲の人達に対して「誰の子供って、あたしの子供よ!」と応えるのは名言です。
辺境中毒! (集英社文庫) 高野 秀行 集英社 2011-10-20 ☆☆☆ |
前半はノンフィクション短篇集、後半は対談と書評をまとめたもの。特に前半が面白いです。
この本で印象に残ったのは、一つは「ショーよりも幕間を」という短編。
ミャンマーの反政府少数民族独立運動にかかわっていたときのことだ。親しくしたゲリラの長老が、エンドレスに続く内戦に疲れ厭戦ムードが蔓延するゲリラの幹部や若手たちを叱咤した。
「どうしてもっとガンガン戦わないんだ? ショーをやらなきゃお客は来ないぞ」
私はこのショー発言に衝撃を受けた。その晩、私たちは大激論をした。
「戦って死ぬのは若い兵士ですよ。ショーというのはあんまりだ」私が非難すると長老は悲しそうな口調で答えた。
「しかしそれが現実なんだ。戦争をやって犠牲者が出ないと国際社会は誰も私たちに目を向けてくれない。おまえだってそうだろう? 戦争もしないで、私たちが政府の言いなりになってだらだら暮らしていたら何も書くことがないだろう?」
ショーが開催されていない「幕間」でも、国も人も常に動いている。というより、その動きの結果がショーなのである。ショーだけ見ても何もほんとうのところはわからないし、ショーが終われば忘れてしまう。
これはなかなか重いメッセージです。
『ソマリランド』の中でも、紛争地に対して国際的な援助が差し伸べられ、それが常態となっていまうと、その社会は援助マネーに依存し、「紛争は儲かる」仕組みが固定化してしまう、という危険が指摘されています。むしろ、手段はどうあれ「平和」を実現できた、目立たずメディア的に華のない地域にこそ手を差し伸べるべきではないか、ということです。「平和の方が儲かる」というメッセージを送るのです。
一方で、今すぐにでも助けを必要とする人が存在するのは間違いありませんし、援助を全否定することもできないし、まして助けようとする人々の善意を無下にすることもできません。
また、このミャンマーの少数民族では若者自らがやる気がなくなっているので話が違いますが、もし若者自身が「やる気がある」場合、つまり戦争しか希望のない状況である場合に、「何が何でも平和が一番」などと安全圏から曰われるのか、という疑問もあります。
自分の中に結論はありませんし、こんな風にそれこそ安全圏から大づかみな話ができることでもありません。実際に現地に赴いて、顔を見て話をしている人たちだけが、「残酷な善意」に手を汚すことができるのだと思います。
もう一つ印象的だったのは、筆者がインドで出会った超能力のような詐欺。事実だとしたら本当に不思議で、もしわたしが高野氏の立場だったとしても、やはりひっかかっていると思います。というか、わたしは割とそういう不思議現象に弱い方なので、高野氏のように100ドルだけではなく、150ドルコースを選んでもっと損していたと思います。
UMA探索というテーマはオカルト一歩手前のようではありますが、基本的に高野氏の体験は至ってリアルで、地に足のついたものです。原則として、
①シーラカンスのような未知の動物が本当にいた(実績なし)
②他の動物の見間違い等
③民話的存在で実在はしない
の三つのオチしか想定されていないものです。
しかしこれだけ世界中駆けずり回っていると、時には不思議な体験をするようです。『世にも奇妙なマラソン大会』にも、そうした不思議体験がまとめられていますが、このインドの「超能力者」も実に不思議です。
こんな体験ができただけでも、怪獣なんかよりずっと凄いことのように思います。
メモリークエスト (幻冬舎文庫) 高野秀行 幻冬舎 2011-07-07 ☆☆ |
「読者からの依頼に応えて世界中で探しものをする」という、探偵ナイトスクープ的というか、ちょっとテレビっぽい企画ものです。高野氏のブログを拝読すると、テレビ番組の模倣のように言われてうんざりしたようですが、高野氏の方が「本家」に近いでしょうし、そもそも演出もヤラセもなく単身乗り込んで調査していく、というところはテレビ的ではありません。
ただ、この本で本当に面白かったのは、高野氏自身の思い出を追いかける第四章。氏がウガンダで出会って「脱出」を手助けしたザイール人の青年についての物語です。この青年の「逃避行」は実にドラマチックで、彼を探り当てるまでの高野氏の迷走・爆走にはいつもながらグイグイと惹きつけられ目が離せません。
やはり氏自身の「ストーリー」を語る時が一番おもしろいですし、他人の思い出をたどるにしても、別のネタであればもうちょっと違う展開になったように思います。
それから「メモリークエスト」というタイトルは、ちょっと今ひとつなのではないでしょうか。中身は「冒険譚」で、「メモリークエスト」というカタカナから連想するイメージとは少しズレていて、キャッチーでもないように思います。
少しだけ似ている?ネット上の小ネタとして、デイリーポータルZの「ちょっと見てきて」がありますが、タイトルではこっちの方がずっと優秀です。高野氏はタイトルで損をしている時があるように思います。
応募の中には「ペルーに忘れてきたセーターを探してくれ」とかいうぶっ飛んだものがあったそうですが、探しもの自体はほぼ100%見つからないでしょうが、こういう企画を実行して、その道中でのハプニングを語り、タイトルも「ペルーに忘れてきたセーターを探せ」とかそのまんまにすると、実に馬鹿馬鹿しくてキャッチーだったかと思います。
世界のシワに夢を見ろ! (小学館文庫) 高野 秀行 小学館 2009-01-08 ☆☆ |
『ヤングチャンピオン』での連載を単行本化したもので、高野氏の「おバカ」なエピソードが綴られているものです。元が短文の連載だからか、基本的に深い物語がある訳でもなく、メチャクチャエピソードが一つずつ語られているのみです。
個人的に印象に残っているのは、コンゴ遠征を前に霞ヶ浦でゴムボートを試し、風に流されて危うく遭難しかけるもの。探検部が霞ヶ浦で撃沈しかけるというお話です。
これも、面白おかしく書いていますが、一歩間違えば死人が出ている、というか全滅している状況で、本当にシャレになりません。霞ヶ浦だろうがコンゴだろうが、自然をナメたら恐ろしい目にあうのでしょう。
いや、それにしてもここで全員無事に帰還できて本当に良かったですね。
ちなみに、『怪獣記』では、子供用ゴムボートで湖に乗り出す場面があるのですが、霞ヶ浦での失敗を教訓に、「命綱」を付けて漕ぎだしています。
未来国家ブータン 高野 秀行 集英社 2012-03-26 ☆☆ |
正直、高野氏の本の中では個人的な評価が低いです。
まず、何をしたいのかハッキリしない。友人である二村聡さんの依頼を受けた生物資源調査という使命と、雪男を探すという目的があるわけですが、生物資源調査については高野氏は専門家ではないし、一方で雪男についてもあまり実在は信じていない。それでも民話聞き取りとしてはそれなりな面白みはある訳ですが、やはりある程度のリアリティをもったUMA探索とは方向性が違ってきます。
まぁ、目的については良しとしましょう。高野氏の文章の面白さはいつも「過程」にあります。ただ、その過程も他の旅に比べると今一つ盛り上がりに欠けます。ブータンは外国人の滞在が厳しく制限されているため、スケジュールも政府に把握された状態でガイドがついてきます。これだけなら『ミャンマーの柳生一族』的状況なのですが、『ミャンマー』では一緒に旅した船戸与一さんが非常に濃いキャラで面白いのに対し、ブータンの同行者は基本的に「イイ人」です。
そう、この「イイ人」というのが問題です。
いえ、イイ人なのは大変結構なのですが、どうも登場人物全般が優等生すぎるのです。傍から見て面白がってるだけの無責任な見方ですが、やはりローカルのテキトーでハチャメチャな人と絡んでもらいたい、というのが安全圏からの勝手な意見です。
これは、この本の印象がもう一つよろしくなかった全くの個人的な理由とも関連していて、大変申し訳ないのですが、わたしはブータンのイメージがあまり良くありません(なら読むな!というのは誠にごもっともです。すいません)。良くない、と言っても、悪いのでは全然ありません。そうではなく、なんだか「良い国」的なイメージがやたら流通していて、それが気に食わないのです。全くの天邪鬼です。ですから、高野氏にはブータンの黒いところを抉って欲しかったのですが、行ってみたら本当に良い人たちで、それがますます面白くないです。正確に言えば、「毒人間」という被差別民の話が出てはくるのですが、スケジュール的な制限もあって、もう一つ掘り下げられていません。
色々悪く書いてしまいましたが、もちろん面白いところもあります。
良い所というのは悪い所の裏返しであることがままありますが、自由と幸福についての高野氏の思索には考えさせられるものがあります。高野氏は幸福と「(余計な)自由のなさ」を関連させて考えており、これには全く同感なのですが、それがこうした形で具体的に示されると、「逆ディストピア」とでも呼びたくなるような妙な不気味さがあります。
ブータンを一ヶ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だから個人に責任がなく、葛藤もない。
(…)ブータンのインテリがあんなに純真な瞳と素敵な笑みを浮かべていられるのはそのせいではなかろうか。
アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくなる。教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。
でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこの国にはできあがっている。
ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。
もし本当にブータンがそんな状況なら、個人的には大変理想的だと思います。そう思うからこそ、何か不気味さを感じないではいられません。
もしかすると、単なる羨望かもしれません。
わたしは今更ブータン人にはなれませんし、子供の頃から自由と責任を与えられ、かつそれが「良いこと」だと刷り込まれています。わたし自身は、ある年齢に達してから、それこそが不幸の源泉だと考えるようになったのですが、はっきり言って大人になってからでは遅すぎます。今更わたしが何をどう考えようが、もう手遅れなのです。
こんなことを感じるのはわたし一人だけかもしれませんが、何か取り残されたような、死後の世界からこの世を眺めているような、静かで暗い気分になりました。
細かいところで言うと、この本は装丁が良いです。また、各章ごとに「現在地」地図があったり、こまめに写真が挿入されているのはとても良い試みだと思います。
また、ブータン人の殺生観として、大きいものを殺すより、小さくていっぱいいるものを殺す方がためらいがある、というのが興味深かったです。ほとんどの日本人、またほとんどの欧米人についても、アリをプチプチ殺す方が牛を屠るより心理的抵抗が少ないでしょう。しかしブータン人は逆に感じるようです。大きくても小さくても「命はひとつ」なので、タラコのような「小さい命がたくさん」あるものは一番抵抗があるということです。
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以上、ざっくりと勝手な感想を書き連ねてみましたが、高野氏の著作の中には、同じ旅の中でのエピソードが複数の物語に使われていたり、一冊の中にいくつもの旅の要素が入っていたりします。何冊も読んでいると、時系列で並べるとどの順序でどこにどれだけ旅しているのだろう、というのが気になってきます。
高野氏には、手の空いた時にでも「自分年表」を作ってブログかどこかででも公開して頂きたいです。著作との対応表などがあると、更に面白いです。末端ニワカ読者の勝手な願望ですが・・。