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無作法な書き言葉

 こんな文章がありました。
ビッチは殺されて当然という人たち、と会わずに済んできた人たち

ネトウヨと言われるような、今だとYahooニュースのコメント欄とかにたくさん書かれてるような意見を読んでショックを受ける人って多いですが、ネットとは無縁の生活を送っている僕の両親も普通にそういうことを言うんですよね。子供のころ毎年お盆と正月に帰省していた母の実家は、当然サマーウォーズのような伝統も財力もない家でしたが、それなりにたくさんの親戚が集まっていました。
そういう集まりの中で声が大きい人や人望を集めてる人ってたいていネトウヨにも負けないぐらい差別的なことも平気で言うような人じゃないですか。
サマーウォーズのおばあちゃんが実在したら「そんなはしたない娘は殺されて当然じゃ」ぐらいのことは普通に言いますよ。
ただ、僕の両親や親戚の人たちが特殊なのかって言ったら全然そんなことなくて、世の中にはそんな悪意はありふれてるんですよね。

 ネット上での(主に匿名の)「差別的」発言や人を傷つける言葉について、「実生活では普通の人だけれど、ネットでは酷いことを平気で口にしてしまう人がいる」という論があるが、実は実生活でもそれくらいのことを言う人は沢山ある、というお話です。
 これは尤もだと思いますし、その背景には語り尽くせない色々な要素があるでしょう。
 それぞれについて深く立ち入ることは出来ないのですが、おそらくそれほど本質的ではない一面として、書き言葉の氾濫、という面が気になります。
 書記というものが発明されたのははるかに昔で、日本に伝来したのは3世紀後半以降だそうです。昔といっても、人類の歴史から見ればつい最近です。
 話し言葉は普通に人間に養育されるだけで基本的なところは身につきますが、書き言葉は特殊な訓練をしなければ習得することが出来ません。書記が発明されても、長い間「読み書き」は一部の人の特殊技能でした。今で言えば、コンピュータのプログラムが書ける、くらいだったのかと思います。
 識字率が上がっても、書くことは話すことと違い、一段敷居の高いものだった筈です。そもそも、書き言葉と話し言葉はまったく同じ言語な訳ではありません。文語と口語は多くの場合乖離していますし、日本で言えば少なくとも明治期の言文一致まで大きな差異があり、それ以降も公式文書では文語体が多く使われています。アラビア語などは、中世ヨーロッパのラテン語と古フランス語のような二重状態が現在も続いています。
 そして重要なことに、「言文一致」が成されたとしても、厳密に言って完全に一致するということはなく、仮に一致したとしてもそれは一瞬のことで、日々変化していく口語に文語はどんどん突き放されていきます。
 ですから、見た目の「一致」と異なり、依然として書き言葉には書き言葉の作法があるのです。日本語だけで生活しているとそうしたことに鈍感になり、あたかも書き言葉は話し言葉をそのまま写したものであるかのような錯覚に陥りますが、少しでも外国人に日本語を教えようとしてみると、書記がいかに話し言葉を「写しきれない」ものかよく分かります。くっつきの「は」「を」のような例外は言うに及ばず、「橋」と「箸」の違いもカナでは表記できませんし、多くの日本人が意識化していないイントネーションの違いも表現できません。読み書きの際、わたしたちはサーカスのような曲芸を無意識に行って読み起こしているのですが、そうしたことは(教育のお陰で)ほとんど意識化されることはありません。
 どこまで行っても書き言葉は「ナマの言葉」とは違う、記録用の特殊な形式であり、それ専用の別の世界があります。そのための作法というものを、一応は皆、学校で習いました。実際、仕事で使う文章になれば、誰でも友達と喋るようには書きませんし、お喋りは得意でもキチンとした文章が書けない人は沢山います。
 ところが、ネットや携帯メールの普及というものは、これに大きな変革をもたらしました。
 それ以前にも「チャット的」なカジュアルな書き言葉というのは存在しましたが、あくまで「作法に則った書き言葉」のオマケ的な、仮の下書き的・メモ的存在でした。ところが、ネットや携帯メールが広がることで、「作法」に則らない書き言葉というのが、爆発的に一般化したのです。
 これはこれで大変便利なことかと思うのですが、こうした「無作法」な書き言葉の問題は、書き言葉と話し言葉の間にある乗り越えられない壁に対して、非常に鈍感なことです。どこまで行っても両者は別物で、たとえ「話すように書」いたところで、やはり書き言葉は書き言葉でしかないのですが、あたかも丸ごと写し取られたかのような錯覚をもたらしてしまいます。多くの人がこの点に無自覚ではありますが、顔文字や絵文字のようなものが発展してきた背景には、この「写しきれなさ」があったでしょう。
 写しきれないも何も、元から別物なのですが、(不可能であるにせよ)「写しきれる」ことが理想であるかのようにイメージされています。そんなことは無理なお話なので、諦めて作法の通り書いておけば良いのですが、もうそうしたことは通用しません。
 その結果、「無作法」な書き言葉が不特定多数の目に触れる、という事態が現れました。
 「無作法」であっても、メールのように知己の間柄で交わされる分には、相手の人柄や話し言葉から脳内補完が行われるわけですが、その外に出ると、作法に則らないものは非常に多義的に解釈されます。書き言葉は元々「補完」プロセスを前提としたもので、そのため「補完」の作法が(ある程度)決まっていたのですが、作法を無視するといかようにも「補完」出来てしまいます。
 顔の見える間柄では、ニュアンスを汲んでそれほど攻撃的ではなかった言葉が、切り離されて殴り書きのようになって漂流すると、非常に鋭利な言葉となってしまうこともあります。
 ネット上で「人を傷つける」言葉がしばしば見られることには、こうした一面もあるかと思います(もちろん、到底この点に回収できるものではありません)。

 結局、わたしたちにとって、書き言葉というのはまだまだ「慣れない」道具なのです。話し言葉のように自在に操れる訳ではありません。
 「チャット的言語」は、その中でも最先端の発明品ですから、変な使い方が頻出してしまうのも仕方のないことかと思います。
 長い年月をかければ、「チャット的言語」にも自然に作法が醸成されていくかと思いますが、今はまったく追いついていません。また、無理やり作法を定めて普及させようとしても、到底無理でしょう。体の使い方を変えるのと一緒で、これはとても時間のかかるものです。

 ではどうするのか、というと、特に策はありません。
 わたし自身は、書き言葉というのは、ネットであれどこでであれ、プログラミングや絵を描くこと、楽器の演奏などと一緒で、あくまで技術として身につけ粛々と組み立てていくもの、と意識するよう務めています。クラリネットを持ってピーとかプーとか適当に吹いていれば音楽になるわけではないのと一緒で、あくまで構造化された技術の一種と割り切っています。クラリネットだって、あたかも体の一部のように操ることが出来る人はいますが、それも熟練の結果でしかありません(大体、「体の一部」だって思っているほど自由に操れるものではありません)。決して、ココロとか意図とかがそのまま表れるものではないです。
 そして、(おそらくは)無自覚に書きなぐられたものについては、動物の鳴き声と同じくらいに考えて、なるべく善意で都合の良いように受け取っています。悪く取ろうと思えばいくらでも悪く取れるのですから、そんなことをしてもお互い何の得にもならないでしょう。もしかして本当に悪い意図で書いているのかもしれませんが、どうせワンニャーとか言っているのと同じですから、噛み付かれるまでは放っておけばいいのです。
 最近、人が自分の幸せ、良い出来事などについて書いたものについて、「それで傷つく人もいるのに」などと噛み付く人がいますが、それはワンニャーに対し「自分の悪口を言っている」などと妄想するようなものです。もしかして本当にワンニャーが悪口なのかもしれませんが、多分違いますし、そうだとしても噛み付くまではワンニャー言っているだけですから、放っておけばいいのです。

kharuuf

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